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寺山修司の不遇の時代、その才能を見抜き、支援した中学校教師の生涯  小菅麻起子著『中野トク小伝』を読む

記事:幻戯書房

教員時代の中野トクさん+『中野トク小伝』+『大正文士のサロンを作った男』
教員時代の中野トクさん+『中野トク小伝』+『大正文士のサロンを作った男』

『中野トク小伝』の概要

 小菅麻起子の近著『中野トク小伝 寺山修司と青森・三沢』(幻戯書房刊)は、青森が生んだ奇才寺山修司(1936〜1983)の青春時代、故郷の中学校の教師に書き送った75通もの手紙をもとに、二人の交感の経緯を解き明かし、のちに童話作家となった中野トクの生涯を跡づけたものである。中野は、三沢の古間木中学校の国語科教師であった。小菅自身、静岡の高校で教壇に立ちながら寺山研究をたゆまず継続していることから、時代を超えて、中野に寄り添ってその生涯を語る口調が温かい。

著者の寺山研究の道のり

 著者小菅麻起子は、大学で「寺山修司研究」をテーマに卒論を書いている。資料を求めて初めて青森・三沢を訪れたのは、大学最後の夏休みのこと。当時は寺山没後5年目であり、故郷にまだ歌碑もなかったという。以来小菅はコツコツと三沢に足を運び、寺山の足跡を確かめ、現地の熱心な関係者と交流を続けてきた。寺山探究に拍車がかかったのは、とくに彼女が大学院に進んでからのことだろう。幸運なことに、小菅は寺山が「恩師」に送った手紙の存在に辿り着く。1996年、この書簡は中野から三沢市に寄贈され、翌年寺山修司記念館が開館するとそこに永久保存されることになる。記念館建設を機に、地元紙「東奥日報」は特集『拝啓中野トク様 修司青春の手紙』を組み、小菅の解説付きの記事を25回にわたり連載した。中野はその3年後に天に召される。

 その後小菅は寺山の元妻九条今日子の監修のもと、ビジュアル版にした『寺山修司青春書簡 恩師・中野トクへの75通』を出版した。これにより読者はいながらにして、若き日の寺山の息遣いが聞こえてくるような手紙や葉書を、そっと覗き込むことができるようになったのである。

中野トクと寺山修司の出会い

 小菅麻起子は生前の中野トクに直接話を聞くことができた寺山研究者だった。そこで今回の小伝では「なぜ寺山修司が三沢の中学教師に手紙を書き送ったのか」の問いに応えるべく、二人の出会いを中野の証言を交えながら綴っていく。

 実は寺山修司は中野トクの直接の教え子ではない。

 弘前生まれの寺山修司は母親とともに疎開先の三沢で終戦を迎えている。父親は戦死しており、戦後、母は一人息子との生活を支えるため三沢の米軍キャンプで働いていた。修司が中学2年のとき、母は九州に転居してしまう。修司は青森の親戚の元に預けられ、転校。青春時代の多感で不安定な時期を、母親不在で過ごしている。

 一方、戦後の新制中学校発足に伴い、中野トクが三沢の中学校に赴任したのは、修司が青森に転居した後だった。中野はその後離婚し、仙台に残してきた息子を引き取り、女手一つで育てていた。

 早くから文学少年だった修司を、中野トク先生に引き合わせたのは、三沢に住んでいたころの友人。彼は中野の教え子の一人だった。

「ちょっとませたおもしろいやつがいる」「寺山はあまり幸福でないから、先生に会ったら少しは幸福になるかもしれない」

 中野は14歳だった修司と初めて会い、瞬時に彼の才能を見抜く。

「口を開いたら、話は止まることを知らず、しかも、偉そうに、生意気に。芝居がかったその態度は、まさに寺山修司そのもの」だった、と当時を振り返って中野は語っている。こうして二人の交流が始まる。中野はいつも聞き役だった。スキヤキ鍋を中野親子と囲むこともあったという。

教員時代の中野トク(図書室にて)
教員時代の中野トク(図書室にて)

中野トクと寺山の交流

 高校で修司は文芸部に所属し、校内のみならず、全国展開で高校生の俳句活動の推進に取り組む。中野は学校教育の傍ら、青森や三沢を中心とした地域の短歌結社や句会に加わり、研鑽を積んでいた。中野の創作者としての姿勢が、やがて修司を短歌の世界に導いていく。「修司は中野を短歌の師と仰いでいた」と小菅は書いている。

 やがて修司は早稲田大学に進学。その年の『短歌研究』に応募した50首短歌「チェホフ祭」で特選となり、10代で華々しく歌壇デビューするのだ。

 中野トクは、修司にとって「短歌の師」だけではなかった。中野への手紙を読むと、修司はかなり頻繁に経済的な援助を求めていることがわかる。とくに歌壇デビュー後、修司は腎臓病で入院、一時は絶対安静の重篤な状態に陥る。病状は一進一退を繰り返すも、修司は文学・音楽・詩劇など後の創作活動への準備ともいえる勉強を怠らなかった。物心ともにひっ迫する事態に、助けを求めた先は中野トクだった。3年半にわたる入院中、実に50通もの手紙を送り続け、こころの乾きと懐中の乏しさを埋めていたのである。

 退院して生活保護を打ち切られ無一文になった修司は、一度だけ青森の中野の元を訪れている。だが、荒んだ修司の様子に、中野は優しく接することができなかったという。以後手紙は途絶える。寺山はこのあと創作活動にギアがかかり、詩人、劇作家、演出家など時代の寵児として世界に躍り出ていくのだ。

 寺山修司の不遇の時代、いち早くその才能を見抜き、援助の手を差し伸べた一人の中学校教師中野トク。二人の交流は、彼女自身が創作家であったこと、そして彼女もまた息子を抱えた寡婦であったことが根底にある、と小菅は結んでいる。

結びにかえて

 この本で見落とせないのは、脚注が豊富で充実していることである。小菅麻起子が長年積み重ねてきた寺山研究の成果が、至るところに丁寧に補遺されている。読者が本文から脚注に目を転じることで、さらに理解が深まり、関心を広げることができるのは嬉しい。

 かつて同じ職場で小菅麻起子と同僚だった私は、彼女の研究の進捗状況を聞く機会が度々あった。私が2015年に幻戯書房から『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を出版できたのは、彼女のたゆまぬ研究姿勢に大いに触発されたからであった。

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