1. じんぶん堂TOP
  2. 文化・芸術
  3. ビートルズの「髪型考」【全文公開】 クレイグ・ブラウン『ワン、ツー、スリー、フォー ビートルズの時代』より[後篇]

ビートルズの「髪型考」【全文公開】 クレイグ・ブラウン『ワン、ツー、スリー、フォー ビートルズの時代』より[後篇]

記事:白水社

ピーター・バラカン氏推薦! クレイグ・ブラウン著『ワン、ツー、スリー、フォー ビートルズの時代』(白水社刊)は、英国の名物コラムニストによる、モザイク状の150章から浮かび上がる異色のポートレート。2020年度ベイリー・ギフォード賞受賞。
ピーター・バラカン氏推薦! クレイグ・ブラウン著『ワン、ツー、スリー、フォー ビートルズの時代』(白水社刊)は、英国の名物コラムニストによる、モザイク状の150章から浮かび上がる異色のポートレート。2020年度ベイリー・ギフォード賞受賞。

[ビートルズの「髪型考」前篇はこちら]

 

 1964年の末には、英国でビートルズの髪型に最も強硬に反対してきた人々もすでに白旗を揚げていた。その年の12月、ビルマのマウントバッテン伯爵、国防参謀総長、元第一海軍卿、最後のインド総督が執事長ウィリアム・エヴァンズに、孫のためにビートルズのかつらを1箱手に入れるよう命じた。製造会社の責任者はハンプシャー州にあるマウントバッテン伯爵の屋敷、ブロードランズを目指し、特別な贈答用セットを積んだ車を走らせる。エヴァンズは、「伯爵はクリスマスの当日、1日中かつらを被り、意気揚々と歩き回った」と回想する。貴族院でビートルズの髪型を批判してから1年後、モントゴメリー陸軍元帥は回れ右して、「かれらがどんな連中か知るために」ビートルズを田舎の邸宅に招くのを楽しみにしているとのたまった。

 しかしこれより強権的ないくつかの政府は、ビートルズの髪型を法律で禁止しようとする。1964年7月、インドネシアのスカルノ大統領は、政府の名の下に自国の若者の頭を「ビートルズ風髪型」にすることを今後、許さないと宣言した。「数日前、『ザ・ビートルズ』を名乗る訳のわからない若造どもがイギリスからこの地を訪れた」と大統領は議会で説く。「連中の髪は眉に届き[…]若者たちよ、もし君らのなかに奴らの真似をする者があれば、気をつけたまえ! わたしはインドネシア全土の警察に命令を発し、インドネシアの若者に奴らを真似て髪を『ビートルにする』者があれば、拘束し、丸刈りにさせる。[…]警察はここにいるか、いないか? この命令を書き留めよ!」

 ソ連ではビートルズのレコードは禁止され、男性の長髪は非合法化され、反ビートルズのプロパガンダが飛び交った。1966年には唯一の国営テレビチャンネルで、ビートルズと悲鳴をあげるファンのグロテスクな写真を何枚も見せ、恐ろしい話と当てこすりの入り混じるナレーション付きのニュース番組が放送された。

 4人組のポップグループ、ザ・ビートルズ──何とも上品ではないか! ところがかれらも活動を始めた頃は、海水パンツ一丁に首から便座を下げてステージに上がり、演奏していた。やがてかれらは親切な妖精と出会う。それはロンドンの商人ブライアン・エプスタイン。この妖精は、才能豊かな4人が大金を稼げると見抜いた。精神を病んだファンにはもう何も聞こえない。
 ヒステリー、悲鳴、失神する人々。コンサートのフィナーレには壊れた会場と喧嘩がつきもの。そこは長髪の4人の歌手の写真に覆われた4面の壁に囲まれた世界。

 これに続くのが、アメリカ最南部の極貧状態を撮った写真の数々、狂ったように踊る10代の若者たち、燃える十字架を手にするクー・クラックス・クラン、それらすべてが社会の不公平に対する西欧世界の無関心を描き出す。

 踊り続けたまえ、若者たち、よそ見をせずに! 周りで何が起きようと、君たちは気にしない。もっと騒がしく、もっと速く、踊り続けたまえ! 他人のことなど気にせずに!

【A Hard Day’s Night of THE BEATLES】

 

 ミハイル・サフォノフはレニングラードの学校に通っていた少年時代に、ソ連のラジオが金銭の飽くなき追求をテーマとする資本主義の曲の一例として流した「ア・ハード・デイズ・ナイト」を聴いた。ビートルズを聴くのはそれが初めてだった。最初は何とも思わなかったけれども、1965年も末に近づく頃にはとりわけ危険なビートルマニアに罹っていた。ミハイルと学校仲間はビートルズのレコードをコピーし、闇市場で交換した。ソ連全土でミハイルのような若いファンがビートルズの歌詞を書きとり、仲間に回し、そうやって英語を学んだ。とびきり反抗心旺盛な者は、見つかればもうそれ以上学業を続けられなくなるかもしれないのに、レーニンとレノンの名前を入れ替えて面白がった。ある学校では見せしめにビートルズの裁判を芝居に仕立て、その模様を放送した。検察官は被告を「虫けら」と罵り、被告人不在のまま裁判の終わりに言い渡される判決は、反社会的行為による有罪。しかしこんな評決は裏目に出るに決まっている。「国がビートルズに難癖をつければつけるほど、ソ連のイデオロギーの欺瞞と偽善を露呈させる結果となった」とミハイルは回想する。「世界中が恋に落ちているものを非難して、ソ連はさらに孤立を深めた。ぼくらの愛する国は正しいのかどうか、ぼくらはますます疑うようになった」。

 ミハイルの学校でのニックネームは「リンゴ」、髪型をそっくり真似たせいだった。学校で銀メダルを獲得したミハイルは文化宮殿にメダルを受け取りに行かなければならなくなり、禁止されたビートルズの髪型に砂糖水を塗りたくって撫でつけて横分けにし、公認の髪型を模した。ところが文化宮殿を出たとたん、警官の一団に髪の本当の長さを見抜かれ、長髪のはぐれ者と叱責されたものの、銀メダルを見せてようやく解放してもらえた。

 ミハイルは長じてサンクトペテルブルクのロシア歴史研究所の上級研究員となる。当時を振り返り、ミハイルはたしかにこう思う。「ビートルマニアはロシア社会の土台を押し流した。[…]ソヴィエト社会主義共和国連邦の全体主義を崩壊させるうえで、かれらはソルジェニーツィンやサハロフ以上のことをしたといえる」。

 奇妙に思われるかもしれないが、この見方はミハイル・ゴルバチョフとウラジーミル・プーチンがともに正しいと認めている。2003年5月に「赤の広場」でコンサートを行なうためモスクワを訪れたポールはプーチン大統領と面会し、ソ連で育った少年時代にビートルズを聴いて「自由を一気飲みしたような気分」を味わったと大統領の口から聞かされた。この訪問の折にはゴルバチョフ元大統領もポールにこう語った。「ビートルズの音楽はソ連の若者たちに、目の前にあるものとは違う人生があると教えてくれたとわたしは信じています」。

【You can listen to Back In The U.S.S.R. right now.】

 

 ビートルズの髪が少しずつ下に伸び、奥襟を過ぎ、耳にかかり肩にかかるにつれ、他の人々の髪も同じように長くなった。若者たちにとって、長髪は自由の、さらには幸福の象徴となる。「わたしの髪がちょっと長く見えるなら、それはごく早い時期にその考えが脳みそに植え付けられたからだ。長髪イコール幸福という。それはビートルズから来ている」と言うチェロ奏者のスティーヴン・イッサーリスは、1967年末に9歳になった。

 その年の初めに「ペニー・レイン」が発売されると、床屋の常連客の多くが曲のおかげで店の名前が不朽のものになって店主のハリー・ビオレッティは大喜びだろうと考えた。「いやいや、とんでもない」とハリーは言い返す。「あの子たちが駆け出しの頃、それからクオリーメンになる頃にビートルズの髪を切ったよ。でもビートルズの写真は外した。ああいう髪型は商売にならない。宗旨替えするわけではないが、商売は商売さ。うちの店では髪を大いに刈り込むように勧めているものでね」。

【Penny Lane of THE BEATLES】

 

 わたしたちが暮らしていたサリー州の村の床屋では、鏡の横にある漫画が貼り付けてあった。公衆便所にふたりの男が並んで立っている。ひとりは長髪、もうひとりは短髪。

 「わあ! 驚かすなよ!」短髪の男が大声で言う。「女の子かと思ったぜ」。

 その頃流行ったジョークにこんなのがある。若者が地元の床屋に行き、ビートルズみたいな髪型にしてくれと注文する。すると床屋は刈り上げにしてしまう。

 「なんだよ、ビートルズの髪型はこんなんじゃないぞ!」と若者が文句を言う。

 「ビートルズだってここに来れば、こうなるのさ」と床屋は言い返す。

 1960年代半ばから後半にかけて、ビートルズと髪型の変化についていくのは難しくなった。口髭、顎鬚、もみあげまで入れればなおのこと。1968年9月には、マダム・タッソー蠟人形館の職人が絶えず変化し続ける容姿に合わせて、4年間に5度目となるビートルズ蠟人形の手直しを強いられる。その3か月後、ポールが顎鬚を生やし始め、職人諸氏はまた最初から作業をやり直さなければならなくなった。

The Beatles mural in Yekaterinburg
The Beatles mural in Yekaterinburg

 この頃になると、ビートルズの専属美容師レスリー・カヴェンディッシュ自身が有名人になっていた。ヴィダル・サスーンの店で洗髪からこの道に入ったカヴェンディッシュは、流行の先端を行く雑誌のインタビューを受け、写真を撮られ、最高のパーティーに招待された。カヴェンディッシュは自伝『カッティング・エッジ』まで著し、4人それぞれが自分の調髪にどのような反応を示したかを詳らかにする。意外にも、最もとっつきにくかったのはリンゴで、「自分がビートルズの一員でということを忘れてほしくない[…]唯一のビートル」なのに対して、ポールはいつでも大らかで、感謝の気持ちを忘れない。ジョージは誰より髪が多く、「少なくともポールの倍はあった」けれども、髪を切ってもらう最中はほとんど口を利かず、終わってから「ありがとうと行儀よく」言う以外には何も言わない。ジョンは扱いづらい──「これまで手がけたなかで、たぶん最悪の客」──というのも、少しもじっとしていないから。「『お願いだから、ジョン、頭を動かさないでもらえますか?』何度もくりかえし、できるだけ辛抱強く、こう頼んだものだった。ジョンはしばらくの間は言うことを聞いてくれて、わかったと頷くけれども、それを見ればわたしの言いたいことが少しもわかっていないことがすぐわかる」。

 後年、ジョンは散髪にオノ・ヨーコを立ち会わせるようになった。

 正直言って、わたしはヨーコのとりとめのないおしゃべりの半分も理解できなかったが、そうは言っても、ジョンにしても同じこと。実際、ジョンは次第にヨーコに苛立ちを募らせる。
 「何が言いたいのかわからないよ!」とジョンが文句を言い、頭を振るのだが、それがじつに危ない。「全然わからない!」
 「聞いていないからわからないのよ」とヨーコがジョンを高慢ちきな坊や──ひょっとすると、それがジョンかもしれない──扱いして、からかうように答える。驚いたことに、それでもジョンは怒るどころか、ますますヨーコが恋しくなるらしい。だいたい誰と話していても、会話の主導権を握るのはジョンだった。ところがここで初めて、わたしはこの気の強い小柄な女性がジョンとの会話を完全に支配するのを見た。

【Real Love of THE BEATLES】

 

 ビートルズの面々の身体で、切り落として取り去っても大騒ぎにならない唯一の部分である髪は、ファンやコレクターの間でとくに垂涎の的となった。1966年、ドイツ人の理髪師クラウス・バルッフが『ジョン・レノンの僕の戦争』に兵士役で出演する前にジョンの髪を刈り上げにした。これが世界中の新聞の大見出しになる。「レノンがふさふさの髪なしで演技」、「ビートルがモップトップを切り落とす」、「髪を刈られたレノン──頭のてっぺんをばっさり」。切り落とした貴重な髪が記念品を狙うファンの手に落ちるのをなんとしても防ぎたいブライアン・エプスタインは、ニール・アスピノールを代理に派遣して髪が焼却処分されるのを見届けさせた。

 ところがバルッフ氏は、老後の備えに髪を幾房かとっておいたものと見える。それから50年を経たつい先頃、このとき切り落とされた長さ10センチほどのジョンの髪がダラスのヘリテージ・オークションで競売にかけられた。競売人のゲイリー・シュラムによると、「オークションにかけられたジョンの髪としては最大の房」。最終的に落札したのはブリストル在住のポール・フレイザーで、落札価格は評価額の3倍の3万5000ポンド。本書の執筆時点で、ポール・フレイザー・コレクティブルズ社は「ベルリンの調髪師クラウス・バルッフ氏から入手した──並外れた来歴の──本物のジョン・レノンの髪1・3センチ」を399ポンドで売りに出している。パンフレットには、さらにこの髪は「そのまま額装できる台紙に貼った状態で提供」との一節が添えてある。

【クレイグ・ブラウン『ワン、ツー、スリー、フォー ビートルズの時代』(白水社)所収「53 髪型考」より】

『ワン、ツー、スリー、フォー ビートルズの時代』(白水社)目次
『ワン、ツー、スリー、フォー ビートルズの時代』(白水社)目次

 

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ