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プレスリーは黒人になりきって歌い踊ることで、人種の壁を軽々と乗り越えた 『はじめてのアメリカ音楽史』より

記事:筑摩書房

original image: victorgrow / stock.adobe.com
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エルヴィス登場

里中哲彦(以下、里中) 1950年、サム・フィリップスという男が、北部の都市へ旅立ってしまうブルーズマンやリズム&ブルーズのミュージシャンをつなぎとめておくため、地元メンフィスに、プロとして売り出すための録音をするサン・レコード・カンパニーと、素人向けの記念録音を専門とするメンフィス・レコーディング・サーヴィスを設立します。

ジェームス・M・バーダマン(以下、バーダマン) 彼は白人だったけど、黒人にも白人にも平等にレコーディングのチャンスを与えようとした。アイザック・ヘイズは「サムは、よい音楽をつくりだしさえすれば、肌の色など気にしなかった」と語っている。

里中 サム・フィリップスの傘下には、B・B・キング、ハウリン・ウルフ、ルーファス・トーマス、アイク・ターナーら、錚々たるミュージシャンがいた。しかし彼は、黒人のマーケットが狭いこともよく知っていた。そこで、白人のティーンエイジャーの心に訴えかける音楽を探し始めます。

バーダマン 当時のメンフィスでは、黒人音楽と白人音楽が急速に接近しつつあった。そんな折、自主制作レコードを専門とするメンフィス・レコーディング・サーヴィスへ、派手な服装だが、内気な18歳のトラック運転手がやってきた(1953年7月)。若者は「レコードをつくりたいんです」と丁寧な口調でいった。母親の誕生日を祝うためだ、と理由を添えた。どんな歌をうたうのかという質問には「僕のは誰の歌にも似ていません」(I don’t sound like nobody.)と答えている。そして、エラ・フィッツジェラルドの〔マイ・ハッピネス〕と、黒人ヴォーカル・グループ、インクスポッツ(The Ink Spots)の〔心のうずくとき〕を歌った。

里中 若者は母親の誕生日の2か月後にスタジオにやってきていた。つまり、母親は誕生日を迎えたばかりで、次の誕生日はだいぶ先だった(笑)。その日、あいにくサム・フィリップスはいなかったけど、アシスタントの女性マリオン・カイスカーは若者の名を忘れなかった。“何か”を感じたのでしょうね。

バーダマン その若者は、プロのプロデューサーに自分の歌を聴いてもらいたかったのでしょう。

里中 そして、運命を決する日がやってくる。

バーダマン 1954年7月5日。サム・フィリップスは、二人の伴奏者(スコティ・ムーアとビル・ブラック)を紹介して、その若者に数曲歌わせてみることにした。何か売れるものはないかと思ってテストさせたというわけ。

里中 歌の大半は、エディ・アーノルドやビング・クロスビーが当時ヒットさせていた楽曲だった。しかし、どの歌もパッとしない。

バーダマン やがて休憩が告げられ、重い空気が室内にたれこめた。オーディションが不首尾に終わりそうなことを悟った若者は、気分転換をしようと、黒人の歌をたわむれにいくつか歌いはじめる。

里中 そのなかにミシシッピ出身の黒人ブルーズマン、アーサー・クルーダップ(Arthur Crudup, 1905-74)の〔ザッツ・オール・ライト・ママ〕があった。

バーダマン 若者は突如としてエンターテイナーに変身。さらに伴奏者を乗せようとして踊りもくわえた。二人の伴奏者は笑いだしながらも、楽器に手を伸ばし、楽しげに演奏しはじめた。それを見ていたサム・フィリップスは、若者のなかに自分が探していたものを発見した。まさにその瞬間、エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley, 1935-77)の伝説が生まれたのだった。

エルヴィスはなぜ偉大なのか

里中 ロックンロールを「ロック」に変えたのはビートルズですが、ジョン・レノンが「エルヴィスがいなければ、ビートルズも生まれていない」(If there hadn’t been an Elvis, there wouldn’t have been the Beatles.)と述べているとおり、エルヴィスが果たした役割はとてつもなく大きい。

バーダマン かのボブ・ディランにしても、「はじめてエルヴィスの声を聴いたとき、もうふつうの勤め仕事はできない、上司なんてまっぴらだって感じたよ。まるで脱獄したような気分だった」(When I first heard Elvis’s voice, I just knew that I wasn’t going to work for anybody and nobody was gonna be my boss. Hearing him for the first time was like busting out of jail.)と感じたという。

里中 ブルース・スプリングスティーンは「エルヴィスは俺の神なんだ。エルヴィスがいなかったら、いまごろは百科事典のセールスをやっているよ」(Elvis is my religion. If it wasn’t for Elvis, I’d be selling encyclopedias.)と語っています。

バーダマン あのフランク・シナトラも「俺はただの歌い手にすぎないけれど、エルヴィス・プレスリーはアメリカ文化の象徴だ」(I’m just a singer, Elvis Presley is the embodiment of the whole American culture.)とまで称えている。エルヴィスとは、そういう存在なのです。

里中 エルヴィスが登場した1950年代は、白人と黒人は相容れないものとして双方が壁をつくっていた。公民権運動が広がるにつれて、互いの憎悪はますます激しくなっていく。そうした現実をまえにして知識人が頭を抱えているとき、白人のエルヴィスは黒人になりきって歌い踊ることで、その壁を軽々と乗り越えてしまった。人種問題を観念や理屈で解決するのではなく、白人が黒人を真似することで、白人と黒人が手を取り合って歩む道を模索しはじめた。彼ほどのインパクトを音楽的にも社会的にも与えた人は誰ひとりとしていないでしょう。

バーダマン 歴史学者のダグラス・ブリンクリィは「エルヴィスを嫌うこと、彼の音楽と黄金の声をしりぞけることは、アメリカそのものを理解しないことであり、エルヴィスはアメリカに革命を起こした存在であるという決定的な点を見逃すことだ」とまで述べています。

里中 エルヴィスがでてくるまで、黒人は黒人の音楽を聴き、白人は白人の音楽に耳を傾けていました。軽蔑していた黒人の音楽をわざわざ歌う白人などいるはずもなかった。黒人ミュージシャン、リトル・リチャードは「エルヴィスは音楽をひとつにした。彼は神の恵みだ。白人は黒人の音楽を閉じこめていたけれど、エルヴィスがその扉を開いてくれたんだ」(He was an integrator. Elvis was a blessing. They wouldn’t let black music through. He opened the door for black music.)と語っています。エルヴィスはまた、黒とピンクを組み合わせた服を着ることがあったけれど、あれだって黒人が好むコーディネーションだった。

バーダマン エルヴィスを語るときに忘れてならないのは、ずばり、その下半身の動き。右足に重心を置いて、左足を激しく動かす。あらかじめ用意されたしぐさではなく、そのときの感情に煽られた、震えにも似た動きをしてみせる。それまでの白人は静かに立って歌うだけだった。我を忘れて歌い踊る彼を見ていると、体も思考もすべて黒人になることを夢みていたとしか思えない。音楽は耳だけではなく、全身を、心を震わせるものだということを実践してみせた。

里中 感情のひとつひとつが表情となり、それらが身体の動きをつうじて伝えられた。

バーダマン 思いっきり歌えば感情が伝わるというものではありません。エルヴィスはとまどいながら、震えるようにして歌う。彼の動きには、あらゆる感情が込められていた。

里中 しかし、その震え、とくに下半身の震えは、あまりにも挑発的で、多くの親たちは淫らで下品すぎると声をあげた。とりわけ北部のメディアにとって、エルヴィスは遅れた南部からやってきた「無教養な白人」だった。腰をふる猥褻な動きを「骨盤エルヴィス」(Elvis the Pelvis)と呼んでからかいました。

バーダマン 親とメディアはエルヴィスのあからさまなセクシュアリティに取り乱したけれど、少年少女はただただ夢中になるばかりでした。それが当時の状況だった。腰を振るしぐさがいかに強烈だったかは、映画「フォレスト・ガンプ/一期一会」を観てもわかります。無名時代のエルヴィスが脚にギプスを装着したガンプの動きにヒントを得て、あのステージ・パフォーマンスをあみだしたという設定になっているのだけど、ガンプの母親がTVで腰をふるエルヴィスを見て、ガンプに「子どもの見るものじゃない」というくだりに、当時の親たちの当惑ぶりがみてとれます。

里中 しかし、エルヴィスが出演したTV番組「エド・サリヴァン・ショー」の視聴率は、なんと驚異の82・6パーセントだった(1957年)。いつのまにかアメリカ人はみんなエルヴィスに夢中になっていた。

バーダマン ある人は〔ハートブレイク・ホテル〕に、ある人は〔ハウンド・ドッグ〕に、またある人は〔冷たくしないで〕に夢中になった。私もエルヴィスに夢中になったひとりで、エルヴィスの歌なら、いまでもほとんどすべて歌えます。また、エルヴィスの真似をすれば女の子にモテるんじゃないかと思って、髪をオイルでなでつけたりしていました。

エルヴィスはどこからきたのか

里中 エルヴィスは、ミシシッピ州テゥーペロという田舎の出身ですね。

バーダマン ほこり道しかないようなところで、産業といえるものは乳業だけ。プレスリーの家も貧乏だった。しかし、手製のシガーボックス・ギターを手にしたのが5歳のときだといわれ、ちゃんとしたギターを10歳の誕生日に両親からもらっている。早くから音楽に興味をもっていたようですね。

里中 黒人居住区が近く、黒人たちが歌っているのをよく目にしていた。ヒルビリー、ブルーズ、ゴスペル、スピリチュアルに幼いころから身を浸していた。

バーダマン 南部の煮込み料理、ガンボのように、ごたまぜの音楽を聴いていた。それが彼のなかでブレンドされて、ひとつの声になった。エルヴィスは「ロックンロールの王様」ということになっているけど、じつはグラミー賞の受賞がすべて、ゴスペル、宗教歌の部門での受賞です。

里中 エルヴィスは「2歳のころから親しんでいたのはゴスペルで、音楽といえばゴスペルだった」と述べている。

バーダマン コンサートやレコーディングのリハーサルの前には、かならずゴスペルを歌ったといいます。ゴスペルこそが立ち返る原点だった。

里中 13歳のとき、一家はメンフィスに移り住む。社会の下層にいたエルヴィスは、高い階層にいる白人よりも、黒人のほうに親近感を覚えた。

バーダマン 有名になったエルヴィスは、あるインタヴューで「いま僕がやっているようなことを、黒人の人たちはずっと長いあいだやってきたんだ」と答えています。

里中 1948年には、メンフィスに黒人専用局であるWDIAが開局した。これも13歳のエルヴィスにとっては大きな出来事だった。夜更けに、エルヴィスはこっそりラジオのダイアルを合わせていたと伝えられている。

バーダマン ラジオをひねれば、ビング・クロスビーからオペラまで流れていた。なかでも、〔グランド・オウル・オプリ〕というラジオ番組で流すカントリー・ミュージックは、エルヴィスのみならず、南部出身のミュージシャンに大きな影響を与えました。ところで、エルヴィスのアルバムのなかで、愛聴盤といったら何ですか。

里中 1956年のデビュー・アルバム「エルヴィス・プレスリー登場!」ですね。野性味あふれるファルセット、官能的なヴィブラート、そして狂おしいシャウト。すべての曲が、エルヴィスに歌われるのを待っていたかのように、そこにある。

バーダマン 私は、デビュー前の、1955年の秋にメンフィスのサン・レコードでおこなったセッションを録音した「サンライズ」(1999年発表)をあえて挙げたい。衝撃的、超越的、独創的で、他との比較をゆるさない。いま聴いてもぞくぞくする。

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松岡完・筑波大学教授による『はじめてのアメリカ音楽史』書評もこちらで読めます

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