「芸術の都」パリを訪れた日本人美術家たちの記憶をたどる
記事:平凡社
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近代日本の美術家にとって、パリは一貫して「芸術の都」であり、憧憬の対象だった。
パリが「芸術の都」と目されるようになるのは、印象派がアカデミズムの規範を破壊して、フランス以外の国の美術界にも影響を与えるようになってからである。印象派の全盛期にあたる19世紀後半から20世紀初頭に、多くの日本人美術家が、エコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)や、グランド・ショミエールやコラロッシなどのアカデミー(研究所)で、デッサンやコンポジションを研究した。
世界中から美術学生が集まるパリでは、美術学校で学べば、美術家として自立できるわけではない。美術学校はアカデミズムが主流だが、時代の尖端を切り拓くのは、既存の美術と異なる世界を形成した少数の人々である。1900年代にパリに赴いた日本人美術家は、まだ存命中の印象派や同世代の美術家を訪ねて、自作への助言をもらった。オーギュスト・ロダンは1917年、ピエール=オーギュスト・ルノワールは19年、クロード・モネは26年まで生きている。彼らに面会した日本人美術家は少なくない。
しかし1910年代に入ると印象派は後景に退き、ポスト・インプレッショニスムが前景化してくる。フレスコ画家として知られる長谷川路可が、東京美術学校日本画科を卒業してパリに赴いたのは、第一次世界大戦が終結して2年半後の1921年5月である。長谷川はサロン・ドートンヌやアンデパンダンに油彩を出品するかたわら、ロンドンの大英博物館、ベルリンの民族学博物館、パリのルーヴル美術館やギメ美術館で、西域壁画の模写を行った。著者が所蔵する長谷川の「ベルリン雪景」は、左下に「於巴里」「路可」と記して、落款を押してある。ロンドンやベルリンでの模写を終えた長谷川は、26年2月にパリに戻ってくる。翌年の帰国までの間に、ベルリンの雪景色を思い起こして描いたのだろう。10年代から20年代前半のドイツでは、主観の働きを拡大させる表現主義が流行した。この絵には表現主義の影響が現れている。
フランスの日本人数は「黄金の20年代」に増大する。第一次世界大戦と世界恐慌に挟まれたこの時代は、ツーリズムの発達に支えられて、世界各国から長期滞在者・短期滞在者・観光客がパリに押し寄せた。フランスに在住する日本人美術家数は、1928年~29年には180人を超えた。日本人だけではない。フランスには7万人の美術家がいて、その6割を外国人が占めていた。
この1920年代にパリの美術界は大きく変容した。エコール・ド・パリを形成する外国人美術家が、この時代の表現をリードしたのである。19世紀後半に印象派の中心にいたのは、フランス人美術家だった。エドゥアール・マネやエドガー・ドガ、ベルト・モリゾやルノワール、モネやロダンは、フランスで生を享けている。しかしエコール・ド・パリのモイズ・キスリングはポーランド、マルク・シャガールとシャイム・スーティンはロシア、ジュール・パスキンはブルガリア、藤田嗣治は日本、アメデオ・モディリアーニはイタリアの出身である。
エコール・ド・パリの美術家は、フォーヴィスムやキュビスムのような、共通する特徴や主張を持っていない。エコール(派)の名称に理念を掲げない、各自がオリジナリティを持って活動する美術家の総称が、エコール・ド・パリである。
1920年代には、日本人美術家のアカデミー離れも顕著になった。美術学校に意味を感じられなかったとしても、日本人美術家がパリを訪れた意義は、少なくとも三つある。
一つ目は美術館。パリの美術館は、ルーヴル美術館やリュクサンブール美術館だけではない。1903年に開館したギュスターヴ・モロー美術館や、19年に誕生するロダン美術館、24年に開館するジャン=ジャック・エンネル美術館など、規模は大きくないが、特定の美術家の仕事をまとめて見られる美術館も存在する。
美術家にとって美術館は、研究の場所でもある。遠い極東の地で複製の写真を眺めるのではなく、実物を目の当たりにすると、制作のヒントを得ることができる。また美術館で複写することにより、鑑賞だけでは分からない秘密に気付くこともある。
満谷国四郎はルノワールから、ピーテル・パウル・ルーベンスの模写を勧められて不思議に思った。しかし「自由な裸体の見方だの、色のあつかいなどの研究として決して不思議ではない」と考え直している。ヨーロッパで日本人美術家が模写した作品は、日本の展覧会で展示され、美術学生が洋画を学ぶ教材の役割を果たすことになる。
日本人美術家がパリを訪れた二つ目の意義は画商である。美術館では中世の絵画や、印象派の鑑賞はできても、同時代の作品を目にすることができない。また現存する代表的な美術家は、サロンにほとんど出品していなかった。「サロン其他の団体運動が全く其実力と勢力とを失っている」ので、「現代画を見やうとするには、毎週1回は画商廻りをせねばならない」と「巴里の美術案内」(『アトリヱ』1930年7月)で伊原宇三郎は書いている。
日本人美術家がパリを訪れた三つ目の意義は、他の美術家との交流である。1923年に渡仏した清水多嘉示は、エミール=アントワーヌ・ブールデルに師事する。そこで清水は各国から集まってきた美術青年と知り合うことになった。「滞仏中の仕事仲間」(『セレクト』1930年3月)で清水は、スイス人、セルビア人、ロシア人、イタリア人などあらゆる国から集まった仕事仲間を紹介している。彼らは毎週あるいは隔週で、誰かのアトリエに作品を持ち寄り、相互に批評をしていた。熱心なあまり夜が更けることもある。ブールデルのアトリエでも会合が開かれ、スーティンが顔を出したこともあった。
フランスに行けば同時代の美術家と交流するだけでなく、亡くなった美術家の足跡をたどることもできる。伊藤廉は『美術新論』1931年1月号に、エクス・アン・プロヴァンスの旅行記を寄せている。四半世紀前に他界したポール・セザンヌの、「水辺の構図を、サン・ビクトアルを、静物を制作していたその材料」を伊藤は見たかった。セザンヌが晩年を過ごしたアトリエでは、生前着用していた外套や帽子が、壁に掛けられている。静物画に描いたテーブルや、棚の上の小物は、当時のまま保存されていた。
パリの日本人美術家数が多くなると、サロンで日本人の作品が目立つようになる。川路柳虹「サロン・ドオトンヌを見る」(『中央美術』1928年2月)によると、1927年11月に開かれたサロン・ドートンヌでは、2400点の作品が展示された。ただし作品のレベルは、「わが国の帝展」と同じで、「時代を左右すべき作品などは一枚もない」と厳しい。出展作品には写実主義・印象派・フォーヴィスム・キュビスムなどの影響が露わで、「世界共通の現代思潮」や「流行」を示していた。日本人の入選者は41人と多く、日本人美術家が「世界の現代美術の水平線上」にいることが分かる。ただ「もっと鮮やかな特質」を、「個性」として発揮してほしいという注文を、川路は忘れなかった。
パリの日本人美術家は、サロンに出品するだけでなく、日本人だけの展覧会も開催するようになる。巴里日本人会で展覧会が開かれると、目立つようになったからだろう、パリの新聞には日本人画家についての記事が出た。岡田みのるによれば、その記事には、フランスの日本人画家が「安価な模倣」をやっているとの批判がある一方で、「彼等の国民性に根ざした持前の心」で制作活動をする人々もいる、との批評が書かれている(『アトリエ』1926年4月号)。
川路柳虹が指摘したように、「世界共通の時代思潮」や「流行」が、サロンの入選作には明らかである。しかし日本人美術家の出品作の批評になると、「摸倣」「国民性」という言葉が、ステレオタイプのように使われている。
これは日本美術を眺めるヨーロッパのレンズが、ジャポニスムによって形成されたことを意味している。それは背中を押してくれることもあり、逆に壁として立ちはだかることもある。
1905年6月に、山下新太郎はラファエル・コランのアトリエを訪ねた。日本人が訪ねてきたのを見て、コランはとても喜んだと、山下は以下のように記している。
元来コラン先生は大の日本贔屓で、日本人と云へば特別に面倒を見て可愛がって下さった。尤もそれには次の様な理由もある。先生は日本の錦絵、絵本の類を非常に好いて沢山愛蔵して居られたし、特に日本の陶器が好きで沢山集めて居られたから、それ等を鑑定して貰ったり、その中に書いてある文章を読んで貰ったりする日本人が何時も一人位は必要であった。(「日本人好きのコラン先生」『中央美術』1916年12月)
コランはジャポニスムというレンズを通して、極東から訪ねて来た、美術を志す青年を見つめ、暖かく迎え入れた。それは19世紀末~20世紀初頭にパリに留学した青年にとっての僥倖だっただろう。
日本人美術家がその恩恵を被ったジャポニスムの流行は、1920年代に入って日本人美術家の作品が目立つようになると、ステレオタイプ化した日本美術観という壁として作用するようになる。
遠山五郎は、アカデミー・コラロッシでプロスペール・ゲランから、次のように言われたと書いている。
日本の芸術には旧くから精練された民族性が香高く盛り込まれて、我々西欧人の到底企て及ばない立派なものがあった。その最も驚かれる所は『単純化』にあった。処が現代の日本の芸術はどうだろう、我々西欧人の模放(ママ)ではないか。(中略)日本民族の持って居たいいものは段々と失って今日見る様な、何所の点から云っても我々西欧人にも及ばないほどまづいものとなってしまった。(「巴里に於けるアカデミーの話」『みづゑ』1923年1月)
ゲランの論理構成は、西欧/日本を二項対立的に捉えている。個人の表現の問題が、民族の表現の問題に置き換えられたのである。
フランスのステレオタイプ化した日本美術観は、日本人美術家の前に壁として立ちはだかったが、より高く聳え立つ壁は、どのようにオリジナリティを創造できるのかという問いだった。日本人美術家だけではない。フランス人美術家も、ロシア人・ポーランド人・イギリス人・アメリカ人など外国人美術家も、その問いに等しく直面して、問いの前で模索を続けていた。
その問いの答えを探すように、日本人美術家は「芸術の都」パリだけでなく、ヨーロッパ各地を回った。日本からヨーロッパに向かった湯浅一郎は、フランスではなくスペインに直行した。「ヴエラスケスのメニポ――私の模写時代」(『中央美術』1927年10月)によると、ホアキン・ソローリャの自宅を訪ねた湯浅は、錦絵を見せられてこう言われる。「日本にはこんなに立派な美術があるのに、君らはなぜ西洋の画を学びに来たのか、君もヴエラスケス宗の信者になりに来たのか」と。
憧憬のパリに赴いた日本人美術家の多くは、パリでさまざまな壁と向き合いながら制作を続け、1年ないし数年で帰国する。しかし異郷の地で亡くなった美術家もいる。
1928年8月16日に死去した佐伯祐三はその一人である。前田寛治は、「佐伯祐三君の死」(『中央美術』1928年10月)に、友人たちから知らされた佐伯の最期を綴っている。第一報は6月24日の鈴木千久馬の手紙で、佐伯が「重態」だと述べている。その後前田は、自宅を訪れた中山巍から、佐伯は森で縊死を試みたが失敗したと聞かされる。山田新一は8月16日の手紙で佐伯の死と、「有難う。すまなかった――」の二言が、最後の言葉だったと伝えた。
正月からの3ヵ月間、「雨風厳寒」に頓着せず、佐伯は戸外で150~160点の絵を描いた。佐伯の死は、オリジナリティを求心的に求めた末の死に見える。前田は「彼を失ったことは誠に口惜しい」とエッセイを結んだ。
佐伯祐三の死の翌年、1929年12月にニューヨーク株式市場で株価の大暴落が起きる。世界恐慌はアメリカから世界中に波及して、「黄金の20年代」の終焉をもたらした。
世界恐慌はパリの画商を直撃した。高価な美術品の市場は、一気に冷え込んでしまう。作品が売れなければ、美術家の生活は困窮に直面する。パリの日本人美術家も経済的に追い詰められていく。
1930年代前半のヨーロッパは、不況とファシズムの抬頭により、次第に暗い影に覆われていく。ドイツでは1933年1月にアドルフ・ヒトラーが首相に就任して、7月にナチス党の一党独裁が成立した。ゲルマン民族の優越性を主張し、反ユダヤ主義を掲げるヒトラーは、ユダヤ人への圧力を強めていく。エコール・ド・パリの美術家には、ロシア出身のマルク・シャガールをはじめ、ユダヤ系の人々が少なからずいた。
それでも第二次世界大戦が勃発するまで、パリにはまだどこか、のんびりとした空気が流れていた。猪熊弦一郎はダンフェール・ロシュローの市場を描き、カフェのテラスで煙草をふかし、画商を回ってラウル・デュフィやピエール・ボナール、アンリ・マティスやジョルジュ・ルオーの作品を鑑賞する。そこには「芸術の都」ならではの時間が流れていた。日本の空気の方が、はるかに重苦しかっただろう。1937年7月に日中戦争が始まる日本では、国民精神総動員実施要綱が決定される。38年4月には国家総動員法が公布された。
1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、パリの日本人数は激減する。第一次世界大戦と第二次世界大戦という二つの大戦の勃発に、藤田嗣治はパリで立ち会っている。1940年4月12日の藤田嗣治の日記には、午前4時頃に大砲の音で目覚めたと記されている。砲音はアトリエのガラスを震わせた。5月10日の午前5時には空襲のサイレンが鳴り、低空を飛ぶ飛行機の音と、大砲機関砲の音がすさまじい。この日にドイツ軍はベルギー・オランダ・ルクセンブルクに侵攻し、パリに近づいてくる。藤田は5月23日にパリを脱出するが、3週間後の6月14日にドイツ軍はパリに入城した。
巴里が陥落しても、巴里の美術は陥落しないだらうか。巴里中心主義の世界の美術界に大きな変動が起らないだらうか。美術と戦争は別ものだと、相変らず巴里中心主義が流行するだらうか。国亡びて山河ありでなく、国亡びても美術ありとうそぶくことが可能であらうか。(西田生「巴里陥落」『エツチング』1940年5月)
これは、日本人美術家の誰もが胸に抱き、誰もが答えられない問いだった。
(引用文の一部を現代仮名遣いに改めました)