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既成概念を打ち破り続ける試み 北園克衛の表現技法 

記事:幻戯書房

北園克衛は当時の雑誌にイラストレーションを提供した。当時の雑誌表紙イラストを、『北園克衛1920年代実験小説集成20’s』では、カバーや化粧扉や章扉などに使用した。
北園克衛は当時の雑誌にイラストレーションを提供した。当時の雑誌表紙イラストを、『北園克衛1920年代実験小説集成20’s』では、カバーや化粧扉や章扉などに使用した。

表現活動の変遷概要

 北園克衛(1902―78)が詩作を始めたのは、現在知られている範囲では、1922(大正11)年頃からのようである。年齢にして19歳、中央大学に入学してまもなく二年が経とうかという時期だ。当初は郷里の地方新聞『伊勢朝報』や俳誌『鹿火屋(かびや)』へ詩を投稿していた。また、1923年に一時的に奈良に居住して以降は、当所の地方新聞『大和日報』や詩誌『雲』のほか、『伊勢新聞』や複数の詩誌文芸誌へも投稿が見られるようになる。この時代の作風は大正的な抒情詩が中心で、ときには高踏でハイカラな一面を見せることもあったが、後年の激しい実験色はまだ窺えなかった。前衛的なアヴァンギャルド詩人としての出発は、よく知られるように、美術雑誌『高原』『エポック』などを発行していた野川孟・隆兄弟と出会ってからだ。

私がこの人物に会ったという偶然が、私の一生のコオスを非常に面白いものにしてしまったのである。(「GGPGからVOUまで」 『日本現代詩大系 第10巻 昭和期3』河出書房 1951・11 「月報」)
すべては全くコペルニカス的転回というのをやってしまったのである。野川孟は私の頭から六法全書的知識をすっかり抜き出して、そのかわりにバウムガルテン風の美学を煙草の煙といっしょに詰めてくれたわけである。(同)

 未来派、構成派、ダダからバウハウスまで、ありとあらゆる前衛芸術の洗礼を一気に浴びた北園克衛は、1924年末頃から突如として、奇妙な記号や科学用語を散りばめた前衛的な作品を書き始める。続く1925年には『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(以下『GGPG』)の編集発行人としての活動を中心に、一気にその実験精神を開花させた。

 1920年代前半、とりわけ23年の大震災以降は、未来派やダダなどヨーロッパの新潮流の受容が進み、前衛芸術運動が一気に興隆を極めた時期だ。『マヴォ』に代表されるようなダダ・アナーキズム系の雑誌が無数に生まれるなかで、『GGPG』は特に芸術派として突出した存在だった。これには共同編集人の野川隆のほかに、同人として参加していた稲垣足穂の存在も大きい。北園克衛の作風も確かに独創的ではあったが、まだまだ野川隆や稲垣足穂にインスパイアされた部分が大きかった。野川隆は当時この特異なグループを「ギムゲミスト」と自称し、北園はのちにその作風を「SFポエム」であったと回想している。

 だが、1926(大正15/昭和元)年に入ると、このギムゲミスト的な作風も影をひそめてくる。北園克衛はしばしば短いスパンで意識的に技法を大きく変化させる。そのことは自らも強く認識している。

自分の詩作の態度は一つの方法を発見すると、それを或る期間集中的に考へてゆく。之れまでの経験に依るとその期間は二ケ年位ひである。(「自分の詩」 『文芸汎論』第13巻第4号 1943・4)
一つの傾向の詩が一定の量に達すると勇気をふるつて、それに用ひた方法やボキヤビユラリイの基本的な部分を出来るだけ徹底的に捨ててしまふのである。そしてまた新しい方法を考へる」(同)

 アヴァンギャルド詩人として常に最先端を突き進むという姿勢の原点がここにある。そして、ギムゲミストたちのSFポエムに代わる新しい実験は、極めて短い文節や印象的な単語でイメージを構成する試みだった。代表作「記号説」に連なる作品群だ。

「1927年、私ははじめて、誰の影響もない一つの場を発見した」(「詩に於ける私の実験」 『現代詩の実験』宝文館 1952)

「私はその新しく発見した詩形で随分とたくさん、ほとんど六ヵ月間にわたって書きつづけたことをおぼえている」(同)

「記号説」の初出は第一詩集『白のアルバム』(厚生閣書店 1929)だが、その原型は大正の末から昭和の初め、1926年から翌年にかけて『大和日報』『住宅』『文芸耽美』などに発表された作品群である。そしてこの手法は、同時期に書かれたいくつかの小説、たとえば本書ⅱ章の「生きる薔薇」「日傘」「Sanisarisus 夜話」「海洋ホテル」などでも多用され、ストップモーションのような、印象的な世界観の構成に成功している。「記号説」成立過程の裏側にこのような作品群があったことについては、今後の再検証、再評価が俟たれるところだろう。

 ところで、このような実験詩の技法を拡大融合させた作品群を、一般に〈小説〉と呼ばれるフォーマットをもつという単純な理由で、通俗的な意味での〈小説〉として読むことには、おそらくあまり意味がない。このことを端的に説明している一文がある。

「芸術に於ける認識の絶対性――は痛快です。透明な脳髄を感じます。僕は頭が痛くなつた。結晶してしまつた。薔薇・魔術・学説――12月号には白百合型の結晶体――といふ短篇を書いた。小説と詩とがどれ程に接近し得るかの研究です。小説と詩が一致しても散文にはならない証明でもある」(橋本平八宛て書簡。ジョン・ソルト・コレクション蔵。日付不明だが内容から1927年11月頃)

 ここで言及されている「白百合型の結晶体」とは、掲載時のタイトル「魔女の灰」(本書ⅱ章)だが、発表からまもなく一世紀が経とうという現在においてもなお、これを小説だと認識するのは、なかなか難しいのではないだろうか。それほどまでに私たちは既成の概念や形式に囚われており、北園克衛はその常識を徹底的に破壊したといえる。実際のところ北園は小説を書いたのではなく、詩を小説の領域にまで拡大していったというほうが正確だ。ここではフォルムで分類したり、解釈したりすることの意味はまったく失われている。辻褄が合うとか合わないとか、脈絡があるとかないとかいった考えは俗事にすぎない。私たちはそこに一瞬のヴィジョンや錯覚のコンポジションを見出せばいいのだ。

 続いて1927(昭和2)年末からはシュルレアリスムの時代に入る。『文芸耽美』の同人でもあった上田敏雄にその弟の保、法政大学のグループから冨士原(ふじわら)清一や山田一彦らが合流して、初のシュルレアリスム詩誌『薔薇・魔術・学説』が発行された。続いて1928年から翌年にかけては、慶応大学の西脇順三郎や瀧口修造のグループとも合流して『衣裳の太陽』を発行するなど、日本の前衛文学運動を大きくリードした。

 1928年から30年にかけては平行して、『円錐詩集』(ボン書店 1933)につながる、アクティブなフォルマリスムの詩的実験も行っている。このように北園克衛は次々とフォルム、手法、ボキャブラリを変化させながら、激動の1920年代を駈け抜け、30年代の詩誌『マダム・ブランシュ』や詩集『若いコロニイ』(ボン書店 1932)に代表されるリリックの時代へと突き進んでいったのだ。

本書のカバー表1に使用したイラストが掲載された「文芸耽美」第2巻第3号 (1927年4月刊)
本書のカバー表1に使用したイラストが掲載された「文芸耽美」第2巻第3号 (1927年4月刊)

本書のカバー表4に使用したイラストが掲載された「海外文学」創刊号(1931年10月刊)
本書のカバー表4に使用したイラストが掲載された「海外文学」創刊号(1931年10月刊)

『北園克衛1920年代実験小説集成20’s』について

 本書は、北園克衛が1920年代に発表した最初期の実験小説を中心に構成している。ⅰ章(一九二五―六)には『GGPG』を中心に発表された作品を、ⅱ章(1926―8)には「記号説の時代」の作品を収録した。『GGPG』掲載作のほとんどは詩とも小説ともとれる実験的なものだが、行を分ける一般的な詩のフォーマットをもつ作品群は、『色彩都市 北園克衛初期詩群』(プレス・ビブリオマーヌ 1981)にまとめられている。本書では、行分けのない〈小説〉形式の作品をすべて収録した。またシュルレアリスム期に〈小説〉のフォーマットをとった作品は少ないため、「水星の時間」一編のみをⅱ章末尾に収めた。

 本来ⅱ章に収めるべき作品のひとつに、『人間群』第一巻第四号(1926・1)に発表された「薔薇畑」があるが、今回は原本を確認することができなかったため、「薔薇畑」の改稿と推測される「生きる薔薇」を代わりに収録した。

 このように北園克衛は、しばしば自作に手を加えて再発表することがあり、詩・小説ともにヴァリアントが非常に多い。例えば本書ⅰ章の「赤い巻煙草」は、1932年にSF短篇「レグホン博士のロボット」にリライトされており、これは既刊『白昼のスカイスクレエパア 北園克衛モダン小説集』(2016)に収録している。同じくⅰ章の「逆体」には、『GGPG』第二年第三集(1925・3)に掲載された詩「汽船のある詩」全編が、改行を詰めるかたちで組み込まれていたりする。

 本書ⅱ章の「上層記号建築」は、『文芸耽美』2年8月号(1927・7)に掲載された「上層記号建築(詩八篇)」が初出だ。このうちコント(掌篇小説)の形式をとる一編だけが改稿され、第一詩集『白のアルバム』に収録された。本書では完成稿として『白のアルバム』版を収録した。

『大和日報』掲載の詩・小説作品のほとんどは、「奈良大学図書館「北村信昭文庫」 北園克衛初期詩篇及び初期未発表詩稿等」(浅田隆『奈良大学紀要』34号 2006・3)および「奈良大学図書館「北村信昭文庫」(2) 北園克衛初期詩篇補遺ならびに北村宛諸氏書簡」(浅田隆『総合研究所所報』15号 2007)にまとめて紹介されている。本書ⅱ章の「銀座(或る人々の生活に就いて)」と「車前草の咲いてゐる短編」の二編は、奈良大学図書館北村信昭文庫所蔵の原本が閲覧できない都合上、『奈良大学紀要』に掲載されたものを底本とした。

 同じくⅱ章の「魔女の灰」も『薔薇・魔術・学説』に初出発表後、大幅な短縮改稿のうえ『白のアルバム』に収録されているが、これについては、先の橋本平八宛て書簡の引用「小説と詩とがどれ程に接近し得るかの研究」の意図を重視し、初出を収録することにした。

 北園克衛は、デビュー当初から数年は本名の「橋本健吉」で作品を発表していたが、1928年の数か月だけ「亞坂健吉」の筆名を、その後は「北園克衛」を用いるようになった。本書に収録した作品では「春の鏡」「魔女の灰」「水星の時間」のみが亞坂健吉の筆名で、ほか初出時はすべて橋本健吉名義だった。ただし、改稿版を採用した「生きる薔薇」「上層記号建築」の発表時は北園克衛名義だった。

 また、ⅲ章(1931―40)には既刊『白昼のスカイスクレエパア 北園克衛モダン小説集』から漏れていた作品を補遺として収録した。

 付け加えるなら、1920年代のダダからシュルレアリスムまでの実験小説の集大成が本書であり、続く三〇年代のリリシズム小説の集大成が『白昼のスカイスクレエパア』であると位置づけることができる。

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