よみがえるモダニスト、正岡容――明治・大正・昭和を駈け抜けた江戸ツ子が描くモダン東京
記事:幻戯書房
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神田の生まれで明治・大正・昭和を駆け抜けた、作家にして大衆芸能評論家の正岡容(1904~58)。芥川龍之介に褒められ、永井荷風に激怒され、桂米朝や小沢昭一に師事され、酒癖が悪く、女性遍歴や夜逃げを繰り返した奇人。
とはいえ、そんなサイテーな男でも、江戸好みの詩情をモダニズムで包む独特の作風で没後、再評価されている。本稿では、正岡容の人生と作品の魅力に迫りたい。
まず、正岡容の作品世界については、次の三つの期間に分けて捉えることができる。
第一が習作の時代(1920~23頃)、第二が芥川龍之介による「称揚」後の、新進作家から流行作家、大衆読み物作家へと変貌をとげた時代(1923~36頃)、そして戦争を挟み、第三が永井荷風との出会から大衆芸能研究者としての色彩を強めた時代(1946~58頃)である。
第一期の特徴は濃厚な〈感傷性〉である。
作家としての正岡容を取り上げた文章に、SF作家の今日泊亜蘭の「結晶しなかったディレッタント」(「大衆文学研究」21号 1967)がある。長編『影絵は踊る』(新作社 1923)に焦点を当てたものだが、否定的な論調のもと、文芸志向の強かった初期の作品世界が、なぜ発展成長することなく終わったのかを述べたものである。
今日泊が指摘した正岡作品の中心点の喪失は、作家本人の熱しやすく冷めやすい性格に依るものであろう。その移り気な性格は作品にも現れている。また今日泊は、実父である画家の水島爾保布のもとで、正岡が落語会を開いていたことも記している。
第二期の正岡容は、まずは稲垣足穂と並ぶモダニズム文学の旗手の一人として捉えられる。江戸情緒とモダニズムの混ざり合う独特な作風が特徴のエンタメ作家といえよう。
新進作家としての文壇への道を拓いたのは、芥川龍之介による「江戸再来記」(「文藝春秋」1923・4)の称揚である。正岡著『荷風前後』(好江書房 1948)の「芥川さん」より引く。
芥川さんに小文を称揚していただいて、最初に私は世の中へでた。さり気なく投じた黄表紙「江戸再来記」が「文藝春秋」大正十二年四月号へ起用、もちろんそのときの喜びも大きく素晴らしかったが、さらにそれが芥川さんから菊池寛氏あての私信で賞讃されたと聞いたときの喜びはさらにまた何にも換えがたく大きかった。(略)湯河原温泉の客舎から菊池氏あて寄せられた手紙で(略)「正岡いるるとは何ものだね、江戸再来記は巧いよ」云々とはかいてあったのだった。
正岡容の作品に芥川龍之介からの強い影響を見出すのは困難だが、商業作家としての出発にその称揚があったという事実は興味深い。だが『芥川龍之介全集』所収の文章に、正岡に関するものは確認できない。芥川と正岡のつながりは極めて脆弱なものだったといえよう。二人が行動を共にしたという記述は、正岡側のものしか残っていない。
文壇デビュー作となった「江戸再来記」は、江戸時代が続いていたらという仮定のもと、小気味よく、外連(ケレン)味豊かに描かれている。初期作品とは違い、「江戸再来記」に〈感傷性〉は一切見られない。商業作家として正岡容が志向したものは〈感傷性〉からの離脱であった。
つまり「江戸再来記」とは、商業用に書き直された『東海道宿場しぐれ』(岡崎屋 1922)であった。個人の内情を排し、エンタメ性を強化している。江戸趣味とモダニズムの混交が、典型的な形で示されている。
モダニズム文学の雄で、正岡容の『風船紛失記』(改善社 1926)の装幀、序文を担った稲垣足穂との活発な交流については、足穂の回想がある(「今は哀しき釜掘りの唄」 「作家」1959・12)。
彼が始めた「開化草紙」に関係したり、単行「風船紛失記」の装幀を依頼されたりして、相当行ききがあった印象が残っているが、実のところ、彼がわざわざ明石までたずねてきて、それからいっしょに神戸、大阪で過した半日が、一期一会であった(略)彼が大阪で妓楼を経営している人の許へ養子入りをして、狂言自殺事件を起したのはこの直後である(略)正岡自身もボクの前で、「それがたったこれだけでんねん」と妙なアクセントの大阪弁を使いながら、指先でわずかな幅を示したことがある。新聞広告をみて折角購った雑誌に載っていたタルホ作品は、原稿用紙二枚足らずの小品だったというわけだ
もともと正岡容は熱狂的な足穂ファンだった。正岡作品に目立つモダンさの多くは、足穂由来と考えていい。正岡の幻想性が強い開化ものと、足穂の初期作品を読み比べると、ある空気感を共有している。それは〈憧れ〉の感情である。足穂のそれは、スピード感あふれる刹那的な「一千一秒物語」を典型として描かれたのに対し、正岡のそれは、明治という時代を舞台に選んだことに現れている。
前掲「大衆文学研究」同号に、玉川一郎の「文藝倶楽部などに、昭和初年頃からすぐれた『明治もの』を書いている正岡君の作品は、私の愛読するところであった」(「知らなかった同級生」)や、和田芳恵の「正岡さんが、大阪に行き、『苦楽』に開化物を書いていたころ」(「孤独な人」)といった言があるにもかかわらず、正岡容および一門全員が開化ものについて多くを語らなかったのはなぜなのか。昭和27年(1952)の作家自身の証言がある。『正岡容集覧』(仮面社 1976)所収の「続わが寄席青春録」より引く。
先代三木助に云はれる前から、薄々帰京のことは考へてをり、当時は博文館から「文藝倶楽部」「講談雑誌」の二誌が発行されてゐて、前者は横溝正史君が活発に編輯してをり、後者も師、吉井勇をはじめ長田秀雄、長谷川伸、畑耕一、サトウハチロー諸家が力作を寄せてゐた時代で、共に私の明治開化小説を例月載せて呉れてゐたから、一そうかへつて来る気にもなれたのだつた。しかし、当時の私の開化小説などは我流の書きなぐりで、かゝるがゆゑに、大半以上を後年破棄し、近年朱を加へて単行本へ収めたは、わづかに「キネオラマ恋の夕焼」一作しかない。
この遺志に従ったのだろう、歿後、門弟たちが編んだ『正岡容集覧』には、流行作家時代の作品の大半が収録されなかった。だが、それは彼ら門弟たちの評価にすぎない。事実、玉川一郎は「すぐれた」と言っている。
作家の主観的評価、読者の客観的評価という問題だが、作品は、作家の手を離れ、商業媒体に発表された瞬間、公共性を帯びる。対価が払われ、目にされた作品は、読者のものでもある。『月夜に傘をさした話 正岡容単行本未収録作品集』は、まさにその意味で、読者の側から編まれた一冊である。つまり、作家の遺志に反した作品集といえよう。
正岡容の江戸趣味の背景については、俳句雑誌「青芝」の「正岡容追悼号」(1959・3)で城左門が書いている(「追悼の文」)。
彼は、その幼時を、江戸ツ子の祖母の膝下て浅草花川戸で過した、と聞いてゐる。このことが、彼の一生を支配したやうだ。時代は明治の末期である。円太郎馬車、瓦斯燈、ジンタ、軽気球、十二階の頃だ。今日、これらは跡形もなく亡び去つてしまつた。この亡び去つた明治の体臭が、正岡容が係恋のカナンの国、夢の故郷である。これへの回想、憧憬が彼の文学の源泉となつた。
それは明治という時代への〈憧れ〉であり、江戸そのものへの懐古ではない。ここに正岡容の、江戸趣味にしてモダンな作品世界の秘密がある。
明治は、消えゆく江戸の風景と押し寄せる近代がせめぎ合った時代で、古典落語の多くが明治期の成立であることを踏まえると、正岡が落語に深入りした根本的な理由が見出される。あるがままの自身を受け止めてくれるものとして、明治という時間(とき)を偏愛したのである。
その作品世界の特徴である江戸趣味とモダニズムの奇妙な融和には、自身が認める明治という時間がまま体現している。だからであろう、多くのモダニストがもつ未来にかけた急進性を、正岡はもっていない。
正岡は明治という時間を理想に、愚直に創作を続けた。この点もモダニズム作家としては異端といえる要素である。足穂が自らを「未来派」と規定したように、モダニズムは未来に何らかの期待をかけたものである。だが、正岡は一貫して、失われた明治に囚われながら、モダニストとしての相貌を露わにした。正岡は他のモダニズム作家とは異なる。この質的差異を解くカギは、正岡が深く関わった大衆芸能の世界にある。
読み物作家としての正岡容の特徴は〈明るさ〉への志向だ。初期作品の〈失意〉〈否定〉といった基調が消え、芸能小説の大半が安手のハッピーエンドを迎えることが多くなった。都筑道夫は「単調さ」という言葉で表現しているが(『推理作家の出来るまで 上巻』フリースタイル 2000)、『正岡容集覧』所収の座談会で門弟だった桂米朝、小沢昭一、大西信行が述べている。
米朝 信念としてメデタシメデタシにしたがるんや、なんでも。
小沢 そうですネ、小説でも悲しい結末ってのは、自分で辛くなるんでしょうネ、きっと……。
大西 いや、だから僕はそのメデタシメデタシの所でいつも不満を感じる。なんだってそう甘えるんだって。
(略)
米朝 明るさがなかったらいかん、明るさがなかったらあかん、どんな悲劇でも悲劇やったら余計に明るさがなかったらあかんとしつこくいうとったな。
初期作品における〈失意〉〈否定〉への執着から、反転ともいえる変化を及ぼしたものは何か。それこそが、正岡容が終生愛した大衆芸能の世界であった。
かつて立川談志は、「落語は、人間の業の肯定である」と看破した。落語に限らず大衆芸能の多くがこうした基調で成立している。〈否定〉を基調としたモダニスト正岡は、大衆芸能に足を踏み入れた結果、その痛烈な肯定論理に巻き込まれ、方針を転換することになった。
だが、徹底した〈明るさ〉への志向は、正岡が絶望を背負っていたことの裏付けでもある。初期作品は自身の境遇への異議申し立てという、最も原始的な表現衝動に殉じたものであった。
先に稲垣足穂と共有する空気感について指摘したが、正岡の場合、第一期に見られる〈失意〉〈否定〉の感情、第二期においては安易なハッピーエンドそのものに、ある期待が託されている。
そう、ここではない理想的などこかに、いつかは辿り着けるはずだという思いである。この理想を託した先が、正岡にとっての明治であった。過去志向でありながらモダニストの正岡は、明治という時間への執着によって、モダニストたり得ていた。
確かに正岡から見て明治は失われた過去である。だが、多くのモダニストが期待した理想の未来もまた、未だ訪れていない。触れることのできないものという点においては、正岡の明治と何ら質的に異ならない。この点において、過去と未来は同一のものとなる。徹底した過去志向でありながら、その本質において、未だ訪れぬ理想の未来を待望し続けた作家、それが正岡容なのである。
正岡容は大正14年(1925)秋に三遊亭円馬夫妻の紹介で石橋幸子と結婚し、大阪に居住、文士落語、漫談で諸方に出演した。
正岡が落語に接近したのは、若き日の永井荷風が人情の機微を学ぼうと、噺家に弟子入りしたことを真似たためのようである。前掲書『荷風前後』より引く。
世を白眼視、野暮な邸の大小捨てて、江戸戯作者のひそみに做つたとかいてゐられるが、さうした先生の思想の中に於ても私の影響されたはかの「見果てぬ夢」の一齣「つまり彼は真白だと称する壁の上に汚い様々な汚点(しみ)を見るよりも、投捨てられた襤褸の片に美しい縫取りの残りを発見して喜ぶのだ。正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞が落ちて居ると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と香しい涙の果実が却つて沢山に摘み集められる……」だつた。此はわが廿(はたち)の日の愚拙なる長編「影絵は踊る」の冒頭にさへ、已に引用させて頂いた位である。同時にこの偽善を悪(にく)み、陋巷の美花に目を濺(そそ)ぐ江戸人特有の思想性情はその後廿有餘年を経た今日に至るまで深く私の人生観芸術観の根底をなしてしまつてゐて、今日、好んで私が落語家、講談師、関東古調の浪曲師の人生芸術の上に「己」をみいだすのも、要はこの先生の「見果てぬ夢」思想の影響に他ならない。「大窪多与里」中に「我、生涯に講談一篇、落語一篇はかきのこしておき度く」と云ふ意味のことかゝれてゐるのを見、また曾て先生が先々々代朝寝坊むらく門下の夢之助なる一落語家なりしをしつて、青春自棄の日の私は数多の新作落語を草して現金馬、柳橋、志ん生、今輔、右女助その他に作り与へ、自らも亦高座に立つて剪燈凭机の一舌耕となり果つるの日さへあつた。何につけても先生の影響いといと甚大と云はなければなるまい。
大正末から昭和初年にかけて、正岡容の大衆小説作家としての苦闘が始まる。「文章倶楽部」や「苦楽」に、精力的に明治開化ものを発表するようになった。「開化草紙」創刊前後で正岡は、流行作家を目指すことにしたのである。
当期の開化ものの多くが、ショッキングな、実話講談まがいの内容であった。おそらく編集部の意向で、それは初出誌の目次に並んだ他作家の小説の大半が同工異曲であることからも窺える。このような時代を大衆作家たらんとして、正岡は駆け抜けた。
正岡容の作家としての自恃が滲むエピソードがある。再び『正岡容集覧』所収の座談会より引く。
米朝 それともう一ツ芸人に似てると思うことは、お宝を頂けるという根性が物書きであんなに強い人はない。
大西 それは金子光晴さんもいってたわネ。
小沢 この人(=大西)なんかもう口をすっぱくして、原稿ってものは商品なんだから。これは時間通りに、約束通りに書いて届けるもんだと言われてたね。
正岡容の強いプロ意識が窺えるが、筆が速かったという事実もまたプロたるべき必須条件である。その意味で正岡は一貫して著述業者であり続けた。
正岡容は昭和4年(1929)に大阪から小田原へ、そして昭和6年に東京市滝野川区へ移転。石橋幸子とは別れ、照子なる女性と生活した。昭和11年には小島政二郎の弟子となり、再び小説の修業をした。この時期は西尾チカとの同居も始めた。
正岡の読み物作家としての闘いは、大正12年(1923)から昭和11年(1936)までをひとつの区切りとすることができよう。開化もので一世を風靡したが、他作家との競合で埋没しかかったことに危機感を覚え、路線変更を計り、小島の門下に入ったのであろう。
小島のもとで描写の重要性を学び、エンタメ性の強い芸能小説の執筆へとシフトした結果、昭和16年(1941)頃にひとつの絶頂を迎えることになった。
第三期、大衆芸能研究者としての色彩を強めた正岡容については、戦後の永井荷風との出会いによる。
一時期、正岡に師事した前出の都筑道夫は、荷風が訪れて以降、その文体から軽妙さが失われ、漢語が増えた硬いものに変化し、執筆依頼が激減したと証言している(前掲書)。
正岡の感激屋ぶりはよく知られたことだが、荷風自身はこの出会いをどう捉えていたのか。『永井荷風日記 第七巻』(東都書房 1959)より「昭和廿一年」(1946)から翌年にかけての、正岡関連の記事を抜き出す。
八月十日。晴。不在中正岡容氏夫妻来訪。
十月三十日。晴。午前正岡容氏来話。
十二月十四日。晴。暖。午前正岡氏小川氏来話。
十二月廿八日。陰。午前正岡容花園某女来訪。白米を贈らる。
一月初一。陰。早朝腹痛下痢二回。午前正岡容氏来訪。
七月一日。時々細雨。午前盗難の事につき重て五叟子を訪ふ。偶然正岡容吉井勇の二氏の在るに会ふ。
永井荷風にとって正岡容は、特筆すべき存在ではなかったとすらいえる。
思うに、永井荷風との出会いから、文学者としての評価を求めた正岡容は、持ち味の軽妙さを失い、結果的に大衆芸能研究者としての色彩を強めたわけだが、しかし、前出の和田芳恵が書き留めた正岡の姿は興味深い(「永井荷風」『和田芳惠全集 第五巻』河出書房新社 1979)。額装までしていた荷風の手紙を前に、「あまり、近寄らないようにするつもりだ。先生のところでは、なにも得られないような気がする」とうそぶいたというのだ。『月夜に傘をさした話 正岡容単行本未収録作品集』所収の、荷風を主人公とする小説二篇「朝寝坊むらく」と「荷風相合傘」は、このような正岡の屈折した感情の現れともいえよう。
師の多くに敬遠、破門、絶交された正岡容は、後年、事あるごとに友人知人に絶交状を送りつけ、弟子を破門した。自身が味わった屈辱を、他者にも味わわせて鬱憤を晴らしたとしか思えない。正岡が孤立した根本的な理由だと考えられるが、まさに都筑道夫が看破している(前掲書)。
正岡さんは自分しか、愛せなかったひとなのだろう。そのくせ人をすぐに信じて、傷ついて、感情をそこらじゅうに撒きちらす。
落語や歌舞伎の外連味は、大衆の欲求を満足させるための刻印でしかない。その場その場の需要を満たした作品ゆえに、後年の正岡は、『月夜に傘をさした話』所収の作品群を、納得のいかぬものとして「破棄」したのであろう。
だが、それは時代の求めに、誠実に応えた苦闘の証でもある。そして、刹那的な生きざまを選ばざるを得なかった作家の苦悩もまた、浮かび上がっているはずである。
(善渡爾宗衛、杉山淳)