いのちの尊厳を守るために――『いのちと性の物語』が問いかけるもの(2)
記事:春秋社
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まず、人間が生れて来る時に関して、「生殖補助医療」「出生前診断」「人工妊娠中絶」、そして「優生思想」について取り扱う。次いで、人間が死を迎える時に関して、「脳死・臓器移植」「安楽死・尊厳死」「ケアリング」「ホスピス・緩和ケア」、そして「死刑・死刑制度」を取り扱う。
さまざまな「生殖補助医療技術」(ART: assisted reproductive technology)は、ある人々にとっては、確かに朗報である。しかし同時にまた、そこにはさまざまな問題もある。まず確認しておきたいこと――それは、いのちは本来、人間に「与えられるもの」(恵み)であって「造り出すもの」(生産物)ではない、ということである。
「出生前診断」は、ARTの一つとして考えられ、一般的医療行為としては、本来悪いものではない。しかしそこにおいて、何らかの先天的異常などが見出される時、問題は生じてくる。それがいのちの選別、つまり、「人工妊娠中絶」である。中絶は、理由は何であれ、胎児のいのちが奪われることにほかならない。おそらく、積極的に中絶を行う人はいないだろう。そこにはさまざまな背景があるのは、事実である。しかし、改めて確認しておきたいこと――それは、新たないのちの誕生において、真の中心的人物は胎児にほかならない、ということである。
この現実の背景には、(たとえ意識してはいなくても)、「優生思想」があることは否定できないだろう。2016年7月26日に起きた「相模原障害者殺傷事件」は、私たちに、大きな衝撃を与えた。わずか一時間余りのうちに、19名が殺害され、27名が傷害を負った。この事件の本質は、犯人の異常性だけに還元できるものではなく、同時にまた、そのような人物を生み出した社会の現実そのものを捉えることにある。また、障害者の一般社会からの隔離もまた、等閑に付すことのできない問題である。
「脳死・臓器移植」――この問題の難しさは、どこにあるのだろうか。「脳死は人の死か?」――これは、一般的に(素朴に)人口に膾炙する問い掛けである。しかしこれは、あまりにも曖昧な問い掛けである。なぜなら、Yesならば「脳死=人の死」、Noならば「脳死≠人の死」となるからである。いずれにしてもしかし、その背景には(おそらく気づいてはいないだろうが)、「人間=脳」といった奇妙な人間観が透けて見える。確かに脳は、人間において、極めて重要な位置を占めている。しかしはたして、「人間=脳」といった人間観が成り立つのだろうか。むしろ、次のような問い掛けこそ、より適切なのではないだろうか――「脳死状態(判定)を人の死の基準とすることに妥当性はあるだろうか。」
「安楽死・尊厳死」の問題もまた、私たちを悩ませる。そもそも、「安楽死」と「尊厳死」の違いはどこにあるのだろうか。一般的に、人間の意志的行為には、何らかの目的がある。「安楽死」において、それはある人の「死」であり、「尊厳死」においては、「生」である。つまり、両者の向かうベクトルは、正反対の方向にあるのである。
「ケアリング」は、ただ単に、医療関係において考えられるものではない。むしろそれは、人間の実存に深く関わっている。「ケアリング」は、単なる個人に還元されるものではなく、人間の根本的な状態(ありかた)にこそ基づいている。シモーヌ・ローチの表現を借りるなら、「ケアリングは、人間の存在様式である。」医療現場において、この「ケアリング」が顕著なものとして現れるのが、「ホスピス・緩和ケア」である。その考察にあたって、まず確認しておきたいこと――それは、ホスピスとは、患者が何のケアもされずにただ死を迎える場所ではない、ということである。また、回復の見込みのない末期患者に、無意味な延命治療を施すこともない。むしろ、限られた残りの人生を少しでも有意義なものにしてあげたい、といった心遣いである。いずれにしても、ホスピスは、一人の患者を、その最後まで尊厳をもった人格的存在として扱うことを旨とする。
多くの人々は、「死刑・死刑制度」の現実について、ほとんど知らない。「あなたは、死刑制度があってもいいと思うか」――このあまりにもナイーブな問い掛けに対して、(データのとり方にもよるが)日本人の約80%余りの人が、Yesと応える。この現実は、いったい何を意味しているのだろうか。そのことについて、四つの観点から考察を進めたい。まず、死刑・死刑制度に対する日本社会の現実を概観する。次に、その社会において、死刑制度が実際どのように行われているのか、そのことについて検証する。第三に、人を裁こうとする人間の現実そのものについて考察する。そして最後に、人間の裁きと神の赦しについて吟味したい。
第三部では、「性の倫理」について考察する。ここにおいても、「いのちの尊厳」は、その原点に位置する。性の意味を問うこと――それは、人間の状態(ありかた)を問うことでもある。換言すれば、ある人がどういう人間であるか、それは、その人が性をどのように理解・受容しているかを見ればだいたい分かるのである。人間における性は、決して付帯的・否定的なものではなく、むしろ、そこにおいて人間の本質が現れてくる場である。その意味で、人間における性を、まず「人格としての性」として捉えたい。「人格としての性」は、「セックス」(sex)としての性、また「ジェンダー」(gender)としての性のレベルに留まらず、「セクシュアリティ」(sexuality)としての性において、より広くまたより深く理解される。人格的存在としての人間は、常に関係的存在である。それゆえ、「人格としての性」の考察に続いて、「関係性としての性」「言語としての性」、そして「性と結婚」の観点から考察を進めたい。
二回にわたって、拙著『いのちと性の物語』の基本的な考え方と、そこでとりあげた諸問題について紹介してきた。紙数の関係もあり、それぞれの問題に深く切り込むことはできなかったので、詳しくはぜひ『いのちと性の物語』を読んでいただきたい。ただ最後に、改めてひとつのことに触れておきたい――それは、最初に述べた「共通善」についてである。
現代は、これまで以上に多様性、価値観の多様化、そして多文化主義などが語られる。そのような状況にあって、はたして共通の価値などがあるのだろうか、と言われることも少なくない。しかし私たちは、決して懐疑主義に陥ってはならないだろう。なぜなら、人間は本来、社会的存在として共同体の中でこそ生きる存在であり、そこには必ず核となる共通の価値を必要とするからである。一人ひとりが求める「仕合せ」が、同時にまた、他の人々の仕合せにもつながるものであってほしい、とそう願う。そのためにも、本書が、何らかの貢献ができるのであれば、幸いである。