昭和文学にはいつも風間完の画があった――時代と共にあった「挿絵画家」の仕事を読み解く
記事:平凡社
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私の父風間完が亡くなったのは、平成15年の12月だった。
息ができなくなったので救急車で運ばれたという。私は一緒に住んでいなかったから、なぜ息ができなくなったのか、俄かには信じられなかった。
というのも、父は平生から好きな酒や肥りそうなものをできるだけ控え、健康管理には気を遣っており、いつも積極的に身体を動かしていたからだ。若い時からテニスや野球をし、ある時期からはゴルフに熱中し、一時はシングルのハンディを誇りにしていた。一緒にコースを回っていたエッセイストの重金敦之氏や小料理屋の福田義明氏には「ゴルフ場で風呂に入るから、家では入らない」と豪語するほど、暇を見つけては通っていた。
ふだんから「好きな絵を描いて生活ができるとは夢のようだ」を口癖にしており、私には絵を描いて暮らす日々を満喫していたように見えた。だからこのまま長生きするだろうと、確たる根拠もなく考えていた。
自分で言うのも何だが、私は最初の子供だったからだろう、父からは異常なほどの愛情を注がれて育った。それは画家ならば当然の資質、並外れた好奇心の持ち主だったからかもしれない。どんなことでも知らないことには強い関心を抱いた。
小学校低学年の時には、勝手に校庭から窓越しに教室の中を覗き込んでいたし、学芸会に私が出演すると、頼まれもしないのに日参し舞台装置を制作していた。万事がこうした具合だったから、思春期になっても私には「反抗期」が訪れず、かなり大きくなるまで「尊敬する人は父親だ」と答えて憚はばからなかった。
それでも「親の気持ち子知らず」で子供は身勝手なものだから、私も成長するに従い自分のことしか考えず、絵描きになりたかった父が家庭の事情で美大に行けず、家具職人を育成する学校でアルバイトをして過ごした10代だったと聞いても、自分流に都合よく理解していた。その後、「勤め人や教師を経験するがどれも適性がなく、消去法で絵描きになった」とマスコミに語っていた本人の言葉を鵜吞みにするほど、若い時の苦労話には関心が薄かったのである。
おそらく病室での死ぬ間際の父との長い会話がなければ、その半生に興味を持つことはなかっただろう。私は勤めを定年退職し自分の時間ができると、後世のために父のことを記しておきたくなった。その必要性を感じたと言った方がいいかもしれない。私には父を最も理解しているのは自分だという自負があり、私が書かなければといった義務感もあった。結婚するまでは一緒に行動することが多かったし、離れて暮らすようになってからも、定期的に酒を酌み交わす「いい関係」は最後まで変わらなかった。だから、原稿は簡単に書けると考え、これに取りかかった。
だが、始めるのが遅すぎた。同じ世代の友人や親戚の人たちはすでに他界しており裏が取れない。親交のあった作家や編集者の方々もほとんど残っておらず取材もできない。
こうなると、すでに書かれたものを細かくチェックするしかなかった。そもそも戦後生まれの私は父が生きた時代背景についての知識が乏しかった。軍隊のことはもちろん戦時下の人々の暮らしなどとはずっと無縁だった。だから父自身が書いた文章のみならず、その時代の世相が分かるものなど、先の戦争についての関連書籍を片っ端から読み漁ることになった。古い雑誌については都立図書館のお世話になった。とにかく私が生まれる以前のことは分からぬことだらけだったのである。
それでも細部については不詳でも、私が物心ついてからは、微かな思い出の中にその手掛かりが少なからず残っており、資料に当たったことで思い出したことは多い。だが、これに予想を超える時間を取られ、結局、あっという間に5年が過ぎてしまった。
もっとも調査が進むに連れ、私のなかで父の一生についての見方に変化がおこった。
父の場合、若い時から貧困と戦争が目の前に大きく立ちはだかり、進む道の邪魔をしていた。関東大震災で一家が破産状態に陥り、兄たちを頼って過ごした少年時代。15年間という長い戦時下での日々。本人自身、「(1957年に)パリに行くまで幸福だと思った事がなかった」と回顧しているとおり、この間の日々は決して明るいものではなかった。やがて画家として成功できたのは、才能のみならずいくつもの幸運が重なったからだろう。
最初、私は絵の才能がある少年が、劣悪な環境を乗り越え初心を貫く成功物語を書くつもりだったのだが、調べているうちに父の人生は生きていた時代背景を抜きには語れないことを納得した。この世代はいまの平和な時代には考えられない、極限下の特殊な状況に取り巻かれていた訳だから、個々の人生についても、広い視野に立って客観的に見つめ直して考える必要があると気がついたのである。そこには個人のレベルを超えて同時代人に共通する、避けて通れぬ運命みたいなものがあった。私自身、父が没した年齢に近づくに連れ、私の主観(それは思い出の中の父といった意味だが)だけで書くのではなく、少し距離をおいて客観的に記述するべきだという考えが強まったのである。
もちろん、私が家庭内で両親のことを「完さん」、「啓子さん」と呼んでいた筈ではないのだが、ここではこの呼称を使った方が私の意図が明確になるのではないのか。私自身、違和感がなくもなかったのだが、本文ではあえてそう呼んで書き進めたことを予めお断りしておきたい。
まえがき
第一章 戦禍で過ごした青春——絵描きと戦争
第二章 パリ暮らし——野見山暁治さんや金山康喜さんとの日々
第三章 八丁堀で生まれた——「水の町」と「江戸っ子」と
第四章 「都落ち」して教師になる——東北の町での「出会い」
第五章 背中を押してくれた吉行淳之介さん——完さんの「友だち」その1
第六章 阿吽の呼吸、山口瞳さん——完さんの「友だち」その2
第七章 向田邦子さん——遅すぎた片思い
あとがき
年譜と挿絵画家としての歩み