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「仏道をならふといふは……」の意味とは――『正法眼蔵 全 新講』

記事:春秋社

道元禅師図像(宝慶寺蔵)
道元禅師図像(宝慶寺蔵)

《本文》

 仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。  

 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

 悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。

《講読》

 道元禅師の最も有名な言葉であり、かつ『眼蔵』の白眉ともいうべき一節が、この「仏道をならふといふは自己をならふなり」である。修行僧時代、この言葉を読んだがゆえに、結局出家してしまった人間は、いったい何人いるのだろうと、よく思ったものである。

 ここではまず、仏教の思想と実践のテーマが「自己」なのだと断言される。本講読ではすでに「現成公案」の意味を「存在するとはどういうことか」だと述べた。その問いは、「自己」において問われる。

 つまり、問いは抽象的な思想の問題として設定されているのではなく、最も切実な「自己」の存在の仕方をテーマにしているのだ。だからこそ「ならふ」の語が重要なのである。ここは何ゆえに「自己を知るなり」ではないのか。「自己を知る」と言うなら、それは「自己とは何か」という問いに答えることであろう。ところが、この問いの立て方が、答えることを無意味にしてしまう。

 「自己とは何か」と問われれば、それは当然「自己とは〇〇である」と答えなければならない。が、この時点ですでに、何を○○として持ち出してこようと、○○は自己とは違うものである。でなければ、ただの同語反復になる。それでも○○は自己なのだと強弁するなら、我々の通常の認識では違うように見えるかもしれないが、特別な訓練や学識による認識からすれば、「実は」○○こそ「真の自己」なのだ、と断言する以外に無い。

 となると、事態は紛糾するばかりである。「自己」の他に「真の自己」が出て来てしまっては、次に○○が「真の自己」だと判断したのは誰なのかが問題になるだろう。まさか「偽の自己」ではあるまい。その上、真であろうと偽であろうと、「自己」について判断しようとすれば、常に「判断する自己」と「判断される自己」に分裂して、それが無限に繰り返される。

 つまり、「真の自己」などという、超越的かつ実体的な観念を持ち出さざるを得ないような問い方と答えは、仏法の立場から言えば、完全な錯覚なのである。「自己を知る」と言わないのは、「自己とは何か」という問い方をせず、「真の自己」を追求する錯覚を排除するためである。

 ここで改めて考えるべきは、「自己」という言葉の意味である。この語は特定の誰かを指示しない。誰でも「私」と言うのだから、当たり前であろう。

 すでに講読の四原則に述べたとおり、自己は他者との関係性から構成される、ある位置と行動様式の名称である。幼児期に他人から呼びかけられる名前を「私」に置き換えて以来、我々は他者(人と物を含む)との関係においてものを考え、行動する。その一連の経験を、「私」という一貫した行動様式に編成し、他者に対して一定の位置を確保する。

 「自己をならう」と言うときの「自己」は、このような行動様式としての「自己」なのだ。ならば、問題はこの様式としての「自己」をどう制作するかということになる。本当の自己とは何かを「知る」ことではなく、どういう自分を作るのか、その制作方法を「ならふ」わけである。すると「仏道をならふ」とは、縁起の教えに基づく実践を言うのであり、仏法を基軸として生きる主体を構成することである。それが「ならふ」べき様式としての「自己」なのだ。

 しかし、この「自己」という存在様式は、それまでの「私」や「自分」とは関係ない。ましてや「知る」べき「真の自己」でもない。もはや「自己」が特定の誰かであることは問題にならない。今やテーマとなる「自己」の意味は、仏法の実践主体ということだけであり、それが人物として誰かなど、どうでもよいのである。 

 かくのごとく、「自己」の正味の意味が仏法修行者ということだけであれば、文中の「自己をわするるなり」とは、これまで世間で生きてきた「私」を、仏法修行の主体へと改造して、それまでの「私」を消去せよと言っていることになる。そのように主体が構成されるのは、言うまでもなく、諸存在を構成する縁起の次元である。ここにおいては、「万法」は二元的認識で規定された対象世界の意味を失い、「自己」との行為的な関係から生成されるが、その過程はまた、「自己」が「万法」との関わりにおいて制作される現場でもある。「自己」がそのような「自己」であるゆえんは、ひとえに「万法」にどのように関わるかで決まる。そこを「万法に証せられる」と言うのだ。

 ということは、ここで最終的に、自己と対象世界がそれぞれに「本質」を持つ実体として対峙するという、二元的な認識の枠組みは放棄される。文中で「自己の身心」「他己の身心」と並べて述べられているのは、自己と他者(対象世界)の二元的対峙を言うのであり、そのような認識は脱却されなければならないわけである。

 ここでは、「自己」に対して「他己」と言われているが、意味的には、他者、あるいは対象一般のことと変わらない。ただ、あえて「己」の字に注目すれば、これは「他者における自己」と解釈できる。すなわち、自他に共通する在り方、存在構造の意味になる。すると、この在り方を実体視したり、構造に実体を設定すれば、自他は二元的に対峙するものとして理解される。しかし、この実体視を脱却すれば、「己」が意味するのは、自他を現成する土台としての縁起の次元のことになる。

 最後の文は、前文の「脱落」を「悟り」と考えることの否定である。そのとき「悟った」とハッキリわかったということは、要するに「悟っていない」状態と区別がついたということである。するとそれは区別である以上、概念化されている。言語による区別にあくまで固執することは、概念を実体視することと同じだ。が、しかし、二元的認識を脱却したときに現成する縁起の次元は、行為に担保されているのであり、概念に規定されるのではない。

 文中、「悟迹」の「迹」は足跡・痕跡の意味であり、この場合は概念的に行われる区別のことである。「休歇」の「歇」は「止める、止める、尽きる、休む」という意味だから、これを踏まえて本文を読めば、仏法は縁起の視点から、あらゆる概念的区別の実体視を無効にする、ということになる。そこからさらに縁起の視点へと進んで(長長出)、存在するものの存在の仕方を、自らの修行で実証するのである。

《現代語訳》

 縁起の教えに基づく実践を習得するとは、実は自己を習得することなのである。自己を習得するとは、自己を忘れることである。
自己を忘れるとは、自己が自己ではない対象世界に由来する存在であることを修行で実証することである。その実証とは、まさに自己と対象世界の二元的な存在様式を脱却することなのである。

 このとき、脱却はそれ自体が「悟った」とわかるような認識ではない。もしわかるなら。それは概念的な認識であり、いまだ脱却ではない。概念的認識を止め、単に止めるのではなく、脱却という行為へと超出して、自己と対象の存在の仕方を実証すべきである。

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