利他を考える――『理想的な利他』
記事:春秋社
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利他とは「他を利する」ということだ。他とは自分以外であり、利とはなんらかのプラスだろう。誰かにお金をあげれば金銭的に他人にとってプラスだろうし、お金が関わらなくても手伝ってあげたり、褒めたり、相談に乗ってあげたりといったことがプラスとして思いつく。どうプラスなのか、何がプラスなのかははっきりとは言えないが、プラスは良さとも言い換えられるとしたら、その人にとって良いことがプラスなのであり、良いこととは何かという大問題に突き当たる。
してあげた時点では良いはずだったことが長い目で見たら良くなかったりするし、私が良いと思っていてもありがた迷惑だったりするし、逆に自分が大したことじゃないと思っていたことが実は良かったりもするだろう。
利他という言葉から思考をめぐらせてみれば、問題になりそうなのは何が他人にとって利、つまり良いことかということである気がする。
では、次に仏教から利他を考えてみよう。これは突飛なことではない。利他は仏教用語なのだから。
まずは仏教は利をどう考えるのか。
仏教は世俗的な善も説くが、では出世間的な究極の善とは具体的に何か。それは「悟り」しかない。つまり、利他とは「他者を悟りに導くこと/他者を解脱に導くこと」である。だから、たんに他者に優しくするとか親切にするのは、仏教的には本来の利他ではない。ただし、仏教も人々を悟りに導くために世俗を無視はしないので、世俗的な善も説く。『理想的な利他』p.35
仏教的な利とは究極的には悟りである。この世は苦しみであるので、この世で多少良いことがあっても苦しみは苦しみだ。だから、この世から離れる悟りこそが良いことでほかの良いことはそれと比べると良くはない。
「そう言われましても」という気持ちにはもちろんなる。そうなのだとすれば、他人を仏道に導くことが利他だということになってしまう。仏教の観点から言えばそうなんだろうが、仏教徒ではない人からは到底認められないだろう。
また、仏教的な他とは何かについて見てみよう。
仏教が説く「他者」とは「自分と切り離された他者/自分とは無関係に存在する他者」ではなく、「自分と縁起の関係で結びついた他者」なのである。よって自分と他者とは「不一不異/不二/不離/相即」の関係にある。『理想的な利他』p.30
仏教は縁起を真理とする。つまり、すべてのものが相互に原因と結果の依存関係にあると考える。そうすると、他者と言っても自分と切っても切れない。そこから言えることがある。
仏教の「利他」の意味をあらためて考えてみよう。自分と他者とが縁起により「不二」の関係にあるなら、「他者を利すること」は「自己を利すること」をも意味する。こうして「利他」とは「自利即利他」に置換可能となる。他者を利する行為は自己を利する行為でもあるのだ。だから、他者を犠牲にして自己の利だけを考える「利他のない自利」は論外だが、「自利のない利他」もたんなる「独りよがりの自己犠牲」となり、仏教的にはこれも否定される。そもそも、これは長続きしないし、喜びもない。『理想的な利他』p.37
つまり、縁起という考えを前提とするなら、利他は自分にとっても利であるし、他人にとっても利であることと言えるということである。利他であるからには自分にとって良くてはいけないと思いがちだが、むしろ自分にとっても良いものこそ利他であるということになる。
縁起を前提にしなくても、片方だけに良いよりも両方にとって良い方がより良いだろう。そんなことは当たり前だと言われればその通り。しかし、自利の方を多くしたくなるだろうし、自利と利他をまったく同じに考えるのは難しい。
なぜ難しいのか? そこを仏教は看破している。
理想的な利他を実践するのに障害となるのが自我意識だ。我々は生まれながらに煩悩を有し、その煩悩は自我を肥大化させる。肥大化した自我は利己的に振る舞うので、利他に悪いものを伴わせる。『理想的な利他』p.42
自我意識の利己性が自利と利他を同じに考えるのを難しくしているのだ。では、仏教が見いだした解決法とは何か?
ここで重要になるのが「他力」だ。日常的な自我を崩壊させ、本来の縁起的自己に目覚めるには、どうしても自我を超えた存在、すなわち「他力」の働きかけが必要になる。この他力の働きかけにより、煩悩に基づいた自我は相対化されて無我を自覚し、無我となった本来の自己は他力の働きを受けて存在の本来性(縁起)を取り戻す。また無我となった自己はさらに他者との関係性も回復し、「自利即利他」を理想とする行動も取ることができるようになる。『理想的な利他』pp.224-225
自分の行為に対する自分以外の要因に自覚的になって、謙虚になること。それによって利他は理想的な利他の姿「自利即利他」を取り戻すことができるのだ。