コロナ時代の「現成公按」(下)――公と按のバランスをとる「思いの手放し」
記事:春秋社
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本書において著者は、「公」と「按」のバランスを取る実践の要となるのがほかでもなく「坐禅」であり、道元禅師が伝えた修行実践であると示している。だが、なぜ、坐禅なのか。(前篇より)
本書には、つぎのように書かれている。
私たちはかつて、人類という種は、世界のすべてのものを所有する、世界で最も重要な存在であると考えてきました。しかし実際には、私たちは自然のわずか一部分のものにすぎなかったわけです。ちょうどガン細胞が、その宿主が死ねばガン細胞自体も死んでしまうのと同じように、自然環境が破滅すれば、われわれ人類自身も破滅してしまうということに、ようやく人類は気づき始めたのです。(中略)われわれの世界についての逆倒した見方を修正することで、すべての存在との自然で協調した健全な生き方を行うことが可能になると、私は願っています。(中略)道元禅師にとっては、坐禅が、われわれの逆倒した見方を正していくための実践の要となるのです。(本書94頁)
なんの予備知識もなくこの箇所を読むならば、きっとこれは今回のパンデミックを踏まえた問題提起であると思うだろう。しかしこれは実は10年以上前に英文で書かれたものである。
奥村師(以下「著者」)は、そもそも、強靭な現代文明批判の精神を懐きながら、粘り強い読解と坐禅修行を続けてきた。こうした現代文明批判の精神は、その師匠である内山興正師、そしてそのまた師匠である沢木興道師から受け継がれたものだ。
今回のコロナ禍で、個人と全体、人間(文明)と自然などについて考えざるを得なくなり、著者が示す「生命実物」の「公按」のありようと問題が重なるようになったのは、そのそもそもの現代文明批判の精神による必然でもあったといえる。なぜなら、『ポストコロナの生命哲学』の著者の一人藤原辰史氏が言うように、「「ポスト」(post/後の)コロナの課題は、「アンテ」(ante/前の)コロナの課題の継続もしくは発展である」(同書10頁)からである。
私たちがかつてより見て見ぬふりをしてきた文明と自然との調和の問題について、粘り強く問いながら読解している本書の内容が、コロナ禍の課題と重なるのは、むしろ当然だといえるのだろう。
とはいえこうした個人と全体の調和の道として、本書が勧めるのは坐禅である。なぜ坐禅なのか。つぎのように言われている。
(A)坐禅の修行は、自分も世界の一部、自然の一部、ブッダの一部であることをハッキリと見ることができるようにしてくれるのです。(中略)考えや意識を手放しすることで、すべての法につながった自己を実現することができます。それは、個人が生命実物に目覚めるのではなく、坐禅が坐禅に目覚めることであり、法が法に目覚めること、ブッダがブッダに目覚めることです。(本書74~75頁)
(B)「絶対的な」真実の言述などと、生命実物の真実の言述として概念化してしまうときにはいつでも、すでに生命実物の外側に出てしまっているのです。「分別を止める」ことは、ただ、坐禅において坐って修行し、思いを手放しすることによってのみ起こることなのです。(本書204頁)
著者は、坐禅のポイントを「思いの手放し(良いことも悪いことも、いかなる思いも観念も手放しすること)」に置いている。これは、師匠の内山老師の教えを引き継ぐものだが、個人と全体という視点でみると、ここには二種類の「手放し」が提示されている(便宜上私がA、Bをつけた)。
一つはわれわれの個人性にまつわる自己中心性を手放しすること(A)。そしてもう一つは、われわれの全体性についての観念の自己中心性を手放しすることである(B)。Aの手放しはわかりやすいが、Bの手放しはやや入り組んでいる。
私たちは、「自己と全体」という図式でものを区別するとき、全体は自己をすでに含んでいるのに、自己ならぬものとして全体を考えがちだ。内部にいる自己ではその全体を見ることができないにもかかわらず、概念的に全体なるものを作り上げ、それを自己と対照的な存在としてしまうのである。
要するに、「自己と全体」という図式における全体なるものには、意識できない私たちの自己中心性が張り付いているということだ。Bの手放しは、この全体性の意識の自己中心性を手放すことをポイントとしているのである。
個人と全体との調和を図る場合に、見失われがちなのは、実はこの全体性の意識に潜む自己中心性である。だからこそ全体的幸福の名のもとに暴力や差別が頻発するのだ。
坐禅はこの自己中心性をも手放す修行である。だからこそ坐禅が個人と全体のバランスを図る実践となるのである。コロナ時代の「現成公按」とは、こうしたアクチュアリティーに坐り込む実践でなければならないと、本書は静かに述べている。