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四十にして惑わず凡人たれ——『40歳から凡人として生きるための文学入門』

記事:幻戯書房

40歳になっても凡人のままだったすべての大人に捧げる本
40歳になっても凡人のままだったすべての大人に捧げる本

書店には三種類の本しかない

 三十年間、英語の本を読んできた。とにかく面白そうな本を英語で読んできた。英文学を専門にしているのだから、英語の本を読むのは当たり前である。

 ただ、私の場合、英語の本ばかり読んで、日本語の本はほとんど読んでこなかった。だから世間でどういう本が読まれているのかを知らない。日本のベストセラー小説も知らない。英語の本ばかり読んでいるうちに、日本の世間を知らないまま中年になった。学生と話していると、ときどき噛み合わない。向こうの知っていることをこちらが知らない。こんなことも知らないのかと呆れられる。せめて最近売れている漫画くらい読みましょうよ、と学生に諭される。世間の人は学者バカとよく言うが、私は世間知らずのバカになった。

 数年前に愚息が小学校高学年になり、ちょくちょく一緒に本屋に行くようになった。息子は十代向けに書かれた小説のコーナーに向かってダッシュする。私は新書のコーナーに直行する。有名人の本、世間で話題になっている新書を探す。面白い本を見つけると、その著者の本をまとめて購入する。

 そうやって一年くらい読んでいるうちに、お気に入りの著者も何人か見つかった。ところが困ったことに、興味に任せて読んでいくうちに、だんだん手にとりたいと思える本が少なくなってきた。これだけ数多くの新書が毎日出版されているのに、読んでみたいと思える本が次第になくなってきたのである。

 そこで、もう一度よーく書店の本棚を見た。よく見ると、結局、三種類の本しかない。

 一つはハウツー本。もう一つは解説本。あとは古典的な名著。

 どれも一流の著者によって書かれた本ばかりである。これって当然のことなのか。私はそう思わない。むしろ異様だと思う。一流の人の本をいくら読んでも、その本の中に私のような凡人は出てこない。非凡な人が書いた本だから、凡人のかけらもない。非凡な人が凡人に向かって非凡なことを書いている。だから異様なのである。

 書店に通うようになってようやく気づいたのは、非凡な人が平凡な人に向かって書いた本しかそこにはないという事実である。四十半ばを過ぎてようやく知ったわけだから、いかに私が世間知らずのバカか、よくお分かりいただけたかと思う。

凡人による凡人のための本を読者(凡人)に届けたい

 でも、読者の大多数が凡人なのに、凡人の書いた本がないのはどう考えてもおかしい。みなさん、内心そう思っているんじゃないですか。

 そこでこう決めた。

 凡人による凡人のための本を自分で書こう、と。すごい飛躍だと思われたかもしれないが、凡人の私にとってこれはごく自然な発想である。

 凡人として凡人に語りかけることに関しては、人後に落ちないと。凡人は凡人から学ぶのが一番いいに決まっている。凡人の私が凡人の読者に向かって、凡人としてより良い生き方を一緒に考えましょう、と語りかけるのだから、参考にならないわけがない。別に自信満々なのではなくて、それが普通の語りだと思っている。

 本書は、凡人として生きるための知恵を文学から学び、読者のみなさんに健やかに軽やかに生活してもらうことを願って書いたものである。凡人として生きる術を身につけるには、文学を読むのが一番いい。私は自分の経験に基づいてそう言っている。

 本書で言及する作家は少ない。しかも同じ作家が何度も出てくる。これは私が怠惰なせいで、凡人を論じる上で参考になりそうな文学作品をいちいち選ぶのが面倒なだけである。探せばいろいろと見つかるかもしれないが、別に「文学における凡人の系譜」みたいな研究には興味がないから、そういう面倒なことはしない。ただし扱う作家は、読者には残念かもしれないが、非凡な人たちばかりである。非凡な人の書いた本を読んで凡人の参考になることはまずないと思うのだが、それこそ読み方を間違うと、凡人として健やかに軽やかに生きるという本書の目的からどんどん遠ざかることになりかねない。そこで、凡人の私が、作者と読者の間に勝手に介入して、凡人としての読み方をお示ししよう。そう考えたのである。

凡人にこそ文学は必要だ

 と、ここまで書いて大事なことを書き忘れているのに気づいた。本書が想定している読者の年齢である。本書は四十代以上の読者を想定している。それより若い人はこの「まえがき」は読んでも、本編は読まないほうがいい。読んでも人生の指針にはならない。あくまで中高年の人たちを想定して書いた本である。四十歳を過ぎたら多くの人は自らが凡人であることを自覚するようになる。しかしそれでは物足りない。自覚の一歩先に、凡人として生きる覚悟がほしい。覚悟を持つには文学を読むのが一番である。だが、文学を読むには時間がかかる。〝四十歳から凡人として生きるための文学入門〟がどうしても必要なのだ。

 四十代になって私が日々思うのは、人間というのはつくづく無意味な存在だということである。私はそう思っているし、多くの読者の方もそう思っているのではないかと感じる。でも人間の存在が無意味だからといって、それで安心立命に生きられるのかというと、生きられない。人間はその無意味さに耐えられないからである。自分たちの存在が、自分たちの人生が無意味だと思うことに耐えられない。耐えられないから、生きることは意味を作り出すことになっていく。でも、意味を作り出すというのはじつは容易ではない。

 そこで、文学を手がかりに凡人の人生にどのような意味を付与できるのかを考えよう、というのが本書のねらいである。

 ただ、本書はいわゆるハウツー本でも、解説本でもない。教養書でもない。本書を読んで、何かができるようになったり、何かを理解できるようになったりはしない。こういう書き方を大学のシラバス(講義概要)ですると即アウトである。シラバスでは学習目標の欄に「~ができる」と書かなければいけない。しかし、この「まえがき」はシラバスではないし、そもそも学習目標もない。だから本書を読んで教養が身につくこともない。じゃあ、本書を読むメリットは何なのか。当然、読者はそう思われたはずである。メリットはありません。私の願いは、読者のみなさん(平凡であることが条件です)が、ご自身の凡人ぶりを自覚され、凡人であることに卑屈にならず、健やかに、そして軽やかに生きていくための手がかりをつかんでいただきたい、それだけです。

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