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亀井俊介の仕事 平易な口語で文化の精髄語る 佐藤良明

亀井俊介さん(1932~2023)。著書に『アメリカン・ヒーローの系譜』(大佛次郎賞)など=94年撮影

 この8月に逝去された亀井俊介先生は、旧制中学入学の年に終戦を迎え、まっさらになった少年の心で、アメリカを抱え込んだ。そして文学を学び、詩人ホイットマンらの自由な個我の叫びに触れ、民主的な文化の裾野の広がりを追いかけた。流れるように英語の書物を吸収して得た澄み切った考えを、平易な口語で物語った。一国の文化を一望の元に収めて、その精髄を語る、こういう学者はもう現れないかもしれない。多くの著書の中から、3篇(ぺん)を選んでみた。

サーカスも文学も

 まずは広い読書層へのデビュー作『サーカスが来た!』(1976年)。これはアメリカを陸路、町から町へと移動しながら、地元の図書館や博物館で、往年のサーカスや演芸、講演会のありさまを調べ、ビリー・ザ・キッドやターザンの物語の背景についても、ハリウッド映画の成り立ちについても論じる。高尚な文学の裾野に広がる庶民の文化に挑んだ先覚の研究書であるとともに、その読み易(やす)さ、楽しさによって日本エッセイスト・クラブ賞に輝いた稀有(けう)な書だ。

 つねに分断にさらされるアメリカを、亀井さんは、学者の矜持(きょうじ)を賭けて、文化的統一体として語った。次に紹介するのは、東京大学での授業を書き残す企画として始まった『アメリカ文学史講義』全3巻(97~2000年)。一国の文学が、歴史の脈絡を背景に、おはなしのように語られる。新国家の建設とロマン主義の勃興を描く第1巻。産業化を背景に、個々の作家の生き様が際立つ第2巻。大国として、世界に読者を得るようになって以後を扱う第3巻。代表的作品のあらすじや読み所を示すサービスも手抜かりはないが、見逃してならないのは、何気(なにげ)なく書き込まれた文化史情報の細やかさだ。

 わずかなページ数の中に大作家の本質を捉える達意の文章は、学者ばなれしている。難解な作品にも飄々(ひょうひょう)と踏み込んで、たとえばフォークナー文学の全体像を15ページで描き切る。広範な読書から自然に生まれたかのような、こういう書き物を見せられると、学問はひとりでできるかのように錯覚してしまう。

近代詩の全貌描く

 でも各書の後書きや、自伝『亀井俊介オーラル・ヒストリー 戦後日本における一文学研究者の軌跡』(17年、研究社・3300円)を読めば、「ひとり」でなかったことはよく分かる。学会のつながり以上に、何人かの信頼する編集者との関わりを亀井さんは大事にされた。

 最後に、80歳を超えて、南雲堂の旧友、故原信雄氏に支えられて挑んだ大作『日本近代詩の成立』(16年)を取り上げよう。これは、ホイットマンの受容研究に始まる生涯の比較詩論がたどり着いた、明治大正期の近代詩の通史である。昭和30年代に書かれた島崎藤村論はじめ岩野泡鳴、北村透谷らを論じる初期の論文を手直しされ、正岡子規や上田敏らについて書き下ろした渾身(こんしん)の16章から成る。

 内村鑑三、夏目漱石、有島武郎については単行本も出されている比較文学の大家の本を、詩歌といえば流行歌しか知らない私がいきなり読んで理解できるかと思ったら、わかりやすくて驚いた。方法はいつもの亀井流――評伝によって作家を知り、作品に接して作者の意図を浮かび上がらせ、それをつなげて近代詩の全貌(ぜんぼう)をうかがう。素朴なほどの正攻法に心を打たれる。

 学問は、難解さにさまよい込みがちだが、それを許してはならないという信念を貫いたのが、民主主義の実践者亀井俊介の一生である。断片化した情報の大波にさらわれることなく、文化の根底を見て、普通の言葉で書き伝える努力をすれば、大きく健やかな理解が開けてくるとの教えを、はて、今の時代、どう受け止めたらいいのだろう。=朝日新聞2023年9月30日掲載