文壇から遠く離れて 演劇や建築に広がった人間関係:私の謎 柄谷行人回想録⑮
記事:じんぶん堂企画室
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――柄谷さんは1980年前後から、いわゆる文芸批評を離れていきます。
柄谷 最近になって気づいたんだけど、僕はすでに70年代半ばには、文学の現場からはみ出していた。この頃、文学以外の領域の人たちと出会ったことも、大きなきっかけでした。これも僕が望んだことじゃない。向こうからやって来たんですよ。その1人は、鈴木忠志です。
《鈴木忠志は、1939年静岡県生まれの演出家。劇団SCOT(Suzuki Company of Toga)主宰。早稲田大学在学中から学生劇団で活躍、別役実らと劇団早稲田小劇場を創立。1976年から富山県利賀村(現・南砺市)に本拠を移した。下半身を重視した俳優訓練法「スズキ・トレーニング・メソッド」でも知られる》
柄谷 73年に、編集者を通じて鈴木さんから連絡があった。僕の「マクベス論」を読んだ、舞台を見てほしい、と。それで、早稲田小劇場で白石加代子主演の「劇的なるものをめぐってⅡ」を見ました。変な演劇でね。
――ヨーロッパでも上演されて評判になった伝説的な舞台です。
柄谷 白石さんが、悲劇的なシーン、ふつうの日本の演劇だったら泣き崩れるようなところで、たくわんをかじるんだよね。衝撃的だった。
――演劇と柄谷さんの関係でいえば、初期の論考は、「マクベス論」はもちろん、漱石論の「意識と自然」でもシェークスピアが重要なモチーフですが、演劇にも関心はあったんでしょうか。
柄谷 僕のシェークスピア論は、文芸評論であって、演劇論ではないですね。それに、「マクベス論」は、直接には言及してはいないけれども、当時あった連合赤軍事件を意識したものでした。僕には演劇への関心はなかったですね。というより、むしろ意図的に避けていた。(妻の)冥王まさ子が学生時代から演劇をやっていて、文学座の養成所に入ったし、さらに東大の大学院ではシェークスピアを専攻していたので。
――冥王さんが研究と実践のど真ん中にいたからこそ、避けていたということですか。
柄谷 そういう面がありました。お互いに、棲み分けていたんです。それでも、僕も新劇を見ることはあった。ただ、アングラとか小劇場の演劇は見てなかったんです。
――1960年代以降、鈴木忠志、唐十郎、寺山修司などそれまでの新劇に対抗するような形で、前衛的な演劇が次々に登場していました。
柄谷 この頃前衛的と見なされたものは、アングラ演劇も現代詩もよく知らなかった。僕は、政治的にも文学的にも“前衛”とは縁遠かった。バカにしていたわけではないんですよ。ただ、積極的な関心はなかった。僕は、自分にわからないものについては、わかったふりや共感したふりをしないと決めていた。だから、鈴木さんからのアプローチは、意外だった。
――実際に舞台を見たり、話したりしてみてどうでしたか。
柄谷 自分と通じるものを感じましたね。「劇的なるものをめぐってⅡ」で、女優の白石加代子は形而上学的な事柄をしゃべりながらたくわんをかじる。言葉と行動が極端に乖離している。しかし、思えば、それは僕が「マクベス論」で言おうとしたことと違わない。つまり、人間は自分が考えているのとまるで違うことをやってしまう、ということなんです。
――なるほど。それで柄谷さんの「マクベス論」に関心を持ったんですね。
柄谷 何でか、というのは分からないよ(笑)。初対面のときにも、そんな話にはならなかった。鈴木さんは、僕に劇を見た感想も聞かなかったしね。
――88年創刊の雑誌「季刊思潮」は、鈴木忠志、哲学者の市川浩とともに編集人に名を連ねていますね。
柄谷 鈴木さんに声をかけられたから、承諾しただけだったんだけど、少し後でそこに磯崎新や市川浩が加わってくると、これまでになかった新しい「思潮」が生まれたと思う。さらに若い浅田彰が入って、それがはっきりしたものになった。そして、「季刊思潮」が「批評空間」につながっていった。
――そもそも、鈴木さんとの出会いがなかったら、「批評空間」もなかったわけですか。
柄谷 そういうことになりますね。僕は、自分から組織的な活動を始めるようなことはしないし、できないからね。鈴木さんは、2000年代には静岡で、「有度サロン」という知識人や芸術家の間での交流を意図したイベントのシリーズを主催していたので、それにも関わりました。もちろん彼は演出家で、それも歴代の日本の演劇人のなかで世界的に最も高い評価を得た人でしょう。だけど、それだけではなくて、オルガナイザーというかフィクサーというか、場をつくる名人でもあります。たとえば、僻地の富山県の利賀村に移住して、地元の人たちと大変な苦労をしてつきあいながら、そこで世界的な名物になった演劇祭をつくりあげていった。今でも利賀村は、演劇村として有名です。鈴木さんは、コロナで公演ができなかったときには、地元の人たちが維持できなくなった畑を借り受けて、劇団員と一緒に野菜づくりをはじめて、たちまちエキスパートになってしまった(笑)。今では、畑をやる若い人たちを県外から迎え入れたりしているんですよ。年をとっても、ダイナミックなところは変わらないなあ、と思ってみています。
――1980年前後には、唐十郎や寺山修司とも対談しています(唐十郎「肉体のエクリチュール」『柄谷行人発言集 対話篇』、寺山修司「ツリーと構想力」『柄谷行人対話篇Ⅰ』)。
柄谷 唐十郎とは、70年代半ばからつきあいがあった。きっかけはよく覚えていないけど、状況劇場の俳優だった川崎容子さんが、僕のよく行っていた文壇バーでアルバイトしていたから、彼女が仲介してくれんだと思います。僕が唐の演劇を見に行って知り合いになり、一緒に飲みにいくようにもなった。
《唐十郎は、1940年東京生まれの劇作家・演出家・俳優。劇団「状況劇場」を旗揚げ。70年「少女仮面」で岸田国士戯曲賞。83年に「佐川君からの手紙」で芥川賞。2024年5月4日死去》
――飲み仲間だったわけですね。
柄谷 唐さんは、大体いつも状況劇場の仲間と一緒だった。根津甚八や麿赤兒なんかがいた。それで、皆で飲んで踊ったりしていた。
――唐さん、飲むと踊るんですか。
柄谷 僕も(笑)。
――柄谷さんが?(笑)。ちょっと意外ですね。
柄谷 いつもじゃないですよ。どんちゃん騒ぎになって、ふざけてみんなで踊ったことがあった。
――唐十郎の舞台は柄谷さんにとっても面白かったですか。
柄谷 あれはセリフを聞いているだけでも面白いでしょう(笑)。
――つい先日唐さんの訃報が伝えられましたが、最後にお会いになったのはいつですか。
柄谷 2010年くらいかな。新宿に芝居を見に行った。唐さんは出ていなくて、演出だけだったと思う。そのあと楽屋裏のようなところで、打ち上げがあった。彼は、不思議な人なんですよ。そのときも、僕のところにやってきて、いきなり土下座するんだ。「お越し頂いてありがとうございます。あなたは本当に神様のような人です」って、熱烈に感謝を述べてね。それでいったんどこか行ってしまったんだけど、しばらくすると今度は血相変えて飛んできて、「なんであんたは俺の作品をもっと評価してくれないんだ! どういうつもりだ!」とかいって怒鳴り散らした(笑)。
――まるで舞台の延長のようですね。柄谷さんはどう反応したんですか?
柄谷 笑っていただけだと思う。そんなふうにハチャメチャなんだけれど、もう一方で、すごく知的な人なんだよね。
――寺山修司とも対談では、演劇、小説、短歌と俳句など、様々な話題が飛び交っています。
柄谷 寺山さんは、僕に対して好意的でしたね。それから、舞踏家の土方巽も親切でした。
――文壇とのつきあいは徐々に薄れていったんでしょうか。
柄谷 選考委員をやっていた関係もあって、授賞式なんかによく出ていたから、文学者に知り合いはたくさんいたけど、もともとさほど深いつきあいがあったわけでもないんです。年が近い親しい友人は、中上健次くらいで。
――アメリカから帰国した後、人付き合いが変化した部分もあるのでしょうか。
柄谷 それはあるでしょうね。ただ、外国がよかったから、日本が嫌になったとかいうことではない。外国の人の方が僕のやっていることをわかってくれた、という意外な感じはありましたけどね。
それから、文学から気持ちが離れていったのには、個人的な事情もあったんですよ。当時の妻の冥王まさ子が、79年に小説を書いて文藝賞をもらった。それは良かったんだけど、妻が作家になった以上、僕の方は文芸批評家を廃業するしかない、と思った。彼女の小説を批評するのも変だし、無視するのも変だから。
――夫婦ともが文壇でやっていく、というのは複雑なことなんですね。
柄谷 彼女だって、そんなことはわかっていたと思います。ただ、彼女は、英文学界では正当な評価を得られないということで、ずっと悩んでいた。それで、小説家になることで新しい道を拓こうとしたんだと思う。そして、新人賞を得た。しかし、僕が批評家として活動していると、彼女はやりにくい。僕もやりにくい。だから、1980年代に入って、僕は文学批評をやめようと思ったのです。つまり、理論的・哲学的な仕事に専念しよう、と。
――文学者の代わりに、演劇人とのつきあいが増えたわけですか。
柄谷 演劇人だけでなく、いろいろな分野の人たちとのつきあいが増えましたね。それに当時は、小説よりも演劇のほうが先駆的だった。近代小説という表現形態は、過渡期を迎えていたような気がします。理論の実践という意味でも、演劇の方が先を行っている面があった。例えば、当時、文芸批評では、「引用の織物」(ロラン・バルト)とか「間テクスト性」(ジュリア・クリステヴァ)ということが言われていましたが、古典を引用して組み替えるようなことは、すでに寺山や唐、鈴木のような人たちが実践していたことだった。
鈴木劇に関して言えば、シェークスピアやギリシャ悲劇、チェーホフのようなヨーロッパの古典を下敷きにした劇で、役者が日本の能に由来するような身体技法にのっとった動きや発声をする。そうすると、身体的な表現が際立つ。といっても、鈴木劇が外国で人気があるのは、エキゾチズムのためというよりも、言葉と行為の分裂という普遍的な問題を体現しているからだと思います。
柄谷 その頃から親しくなった建築家の磯崎新とは、鈴木さんを通じて知り合ったんじゃないかな。あの二人は親友だったから。利賀村にも静岡にも磯崎の建築がたくさんある。
《磯崎新は、1931年大分市出身の建築家。東京大の恩師・丹下健三のもとで、大阪万博のお祭り広場の計画に参加。その後、無表情な箱形のモダニズム建築への批判を強め、ポストモダン建築の金字塔とされる「つくばセンタービル」を設計。世界的にも活躍し、アメリカ・ロサンゼルス現代美術館なども手掛けた。著書「建築の解体」などの言論活動でも大きな影響を与えた。2022年死去》
――磯崎新といえば、“ポストモダンの旗手”というイメージで、建築に関する言説でも大きな影響を与えました。柄谷さんは、80年には「群像」で「隠喩としての建築」の連載を始めます。西洋哲学を建築に例えてその構造を論じた本で、あくまで建築は“隠喩”ではありますが、磯崎さんから刺激を受けたんでしょうか。
柄谷 直接的な関係はなかったと思う。あれは、建築というよりは哲学の論文だし。むしろ、磯崎さんがあの論文を気に入ってくれたことがきっかけで、建築関係者との縁ができた。90年代には、Any(Architecture New York)という建築の会議に関わりました。これは、ピーター・アイゼンマン(脱構築建築で知られるアメリカの建築家)と磯崎さんが中心になって、毎年1回、建築家と理論家が集まって討議するという国際シンポジウムでした。常連には、ジャック・デリダや浅田彰もいた。Anyのメンバーによる、建築理論の本のシリーズも刊行されることになって、僕の『隠喩としての建築』の英語版も、その一冊として出版されました。日本科以外の外国から頻繁に招待がくるようになったのは、この本が出てからです。
磯崎さんは、自身も独自の視点をもった理論家です。建築家として、例外的でしょう。いうまでもなく、建築においてもパイオニアで、西洋の流行の後追いをするようなところが微塵もなかった。安易な日本性を打ち出すことも、もちろんない。柔軟で悠然とした人柄も魅力でした。そんな人だから、一緒にいると刺激的で楽しかった。
彼は、僕の思想にも、興味を持ち続けてくれた。そういえば、『世界共和国へ』(2006年)という本を出したばかりのとき、磯崎さんは、そこで僕が論じた、交換様式A、B、C、Dについて、4象限で表記するのはおかしいんじゃないか、と言ったんですよ。Dは、A、B、Cとは異なる次元にあるものだから、3象限プラス1にしないと、と。それは鋭い指摘で、実は、Dは厳密には交換様式ではないんです。Dは、すべての交換の否定、脱交換だからね。
――交友関係の広がりで、柄谷さん自身も影響を受けたといえそうですね。
柄谷 演劇や建築にかかわる人たちの場合、文学者や哲学者と違って、共同作業が中心でしょう。おまけに、大企業とか政治家ともつきあわなきゃいけないんだから、住んでいる世界が違う。鈴木さんや磯崎さんからの誘いのお陰で、人見知りだった僕も、人と一緒に活動することに、多少慣れました。だけど、自分の思想が変わった、ということはないですね。もともと僕の考え方は、専門的というより、横断的なものでしたから。文壇の外の人や外国人と通じ合ったのは、そのためでしょう。
(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、数学にのめり込んで壁にぶつかった頃など。月1回更新予定)