社会学者への複雑な感情をときほぐす 品治佑吉著『人生と闘争──清水幾太郎の社会学』
記事:白水社
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清水の社会学が語りづらいのはなぜか。その理由については、清水と同時代を生きた社会学者によってつとに示唆がなされている。例えば、清水の東京帝大研究室の後輩にあたり、また戦後の一時期彼と歩みをともにした社会意識論研究者の高橋徹は、清水本人との対談の中で清水に対して抱いていた葛藤を打ち明けている。
私たちのように、戦時中に社会学の訓練を受け、戦後、自前の研究を始めた世代は、清水先生に対して、複雑な感情的コンプレックスを持っています(笑)。[……]先生が1930年代初頭に書かれた『社会学批判序説』(昭8)や『社会と個人──社会学成立史』(昭10)を通して、私たちは社会学の基本性格を学んだわけですが、ここに描かれた社会学は、きわめてネガティブなものでした。この受けとり方は、私だけでなく日高六郎さんにしてもそのようですし、さらには、社会学に進む意思を持ちながら、あれを読んでやめてしまった小田切秀雄さんの例もあります。いずれにしましても、私たちは社会学の内容についての十分な習得を行なう以前に、先生の両著によって、社会学という学問に対するイデオロギー批判の面を強烈に焼き付けられた感じがします。[……]清水先生に対して、私たちは、きわめてアンビヴァレントな感情を抱き続けてきたわけです。
この高橋の発言は、彼が同じく清水の後輩であった社会学者の日高六郎や、文芸評論家の小田切秀雄に言及していることからもうかがえるように、一種の同世代の代弁としてなされたものである。彼らにとって、清水は華々しい業績を通じてみずからを社会学の道へと導いたかけがえのない先達でありながら、同時に社会学それ自体に対する自己否定的な意識を植えつけたトラウマ的な存在として捉えられている。
実際、清水はその生涯において、社会学というディシプリンや同時期の社会学者たちとかならずしも常に良好な関係を保っていたわけではない。高橋の述べる通り、そもそも清水の社会学者としてのキャリアは、社会学それ自体に対して鋭い批判を標榜するところから始まっている。後述するように、清水が東京帝大を去った1933年と同年の9月に発表した『社会学批判序説』では、清水は社会学という学問それ自体を清算されるべきイデオロギーとして切り捨てている。その後、清水はこうした批判の矛をおさめ、みずから社会学者として積極的に発言し始めるものの、社会学界の動向や人間関係とは常に一定の距離を置きつづけた。
また、清水が社会学者や大学人の世界ではなく、もっぱらその外部である出版メディアを活動の中心に据えていたという点も、社会学者としての清水の捉え難さに拍車をかけている。彼の参照する社会学的な知見は、その時々の論壇のトピックや、清水自身の政治的な立場の変化と合わせて、大きな変化を遂げている。こうした清水の出版メディアでの活躍を、社会学のパブリックイメージの形成に寄与したものとして評価することも可能であろう。しかし周知の通り、そこで清水の言論活動が示した振幅もまた非常に大きいものであった。その振幅が、清水の社会学に対する理解を困難にしてきたのである。
かくして清水は、後にも述べるように日本社会学史の形成プロセスにおいてさまざまな点で重要な役割を果たしたにもかかわらず、その位置づけの非常に難しい存在となっている。後に述べるように少なからぬ試みがなされているものの、いまだ清水の社会学に関する一貫した理解を得ることは容易ではない。
しかしながら、清水は社会学者としての長いキャリアにわたって、必ずしも場当たり的に翻身を繰り返していたわけではない。清水の膨大な業績を改めて振り返るとき、それがいくつかの重要な主題によって貫かれていることを見出すことができる。なかでも、特に本書は、清水の活動がその一方でキャリアの初期から60年安保闘争に至る時期まであるひとつの特徴を有していたことに着目する。すなわち、彼が終戦後の総合雑誌の連載や幾度にもわたる自伝の執筆を通じて、「人生」を語る社会学者であったという点である。
例えば、戦後の清水と歩みをともにした社会学者であり、先の高橋の発言にも名の挙がっていた日高六郎は、清水が1949年10月に発表した最初の自伝的著作である『私の読書と人生』の再版まえがきで次のように述べている。
戦前、清水幾太郎氏は、比較的自己を語ることの少なかった思想家だった。戦後、氏は折にふれて、自分自身の生活と体験とを、やや明らさまな形で書きはじめている。おそらくそれは、氏がすでに自己の足跡をふりかえろうとするような年齢に達したからというより、戦前と戦後という2つの時期の中で悪戦苦闘した特異な体験──もっともそれは清水氏と同年齢層のインテリゲンチャにとっては、強弱の差はあれ、かなりなじみ深い体験であろうが──を、新しい世代に伝えておきたいという衝動からであろうと思われる。
戦後の清水は、日高がいみじくも述べているように「自己の足跡をふりかえろうとするような年齢」とはおよそ言えない時期──同書の刊行時、清水は42歳という若さであった──に、幼い日からの回想を交えた自伝的な著作の執筆に取り掛かっていた。清水の自伝執筆の動機に関する日高の推測が妥当かどうかは、ここでは問わない。重要なのは、清水という若き社会学者の手によるいわば“早すぎる自伝”が、戦後の彼の伴走者とも言うべき日高においてなお若干の驚きをもって捉えられていたという事実である。
さらに清水による自伝的著述は同書にとどまらなかった。雑誌や編著書の中でも清水はたびたび自身の半生を振り返る著作を発表している。また1956年1月には、雑誌『婦人公論』誌上の連載をもとに『私の心の遍歴』という2冊目の自伝を出版している。その後3冊目の自伝である『わが人生の断片』(1975)に至るまで、時に波紋を生みもしながら、清水が発表したみずからの回想や自伝的著述を多数書きつづけており、それらすべてを列挙することすら難しい。清水は、自身の晩年期においてではなく、むしろそのキャリアの盛期を通じて、若干の解釈の変化を交えながら、繰り返し自身の自伝を書き連ねてきたのである。
興味深いことに、清水が自身の体験や回想をつづったのは、狭い意味での自伝に属する著作においてだけではない。終戦後、清水は多くの体験や回想を交えた人生案内やエッセイを執筆し、さらには社会学的な著述においても、しばしば回想風の叙述スタイルを採用している。
とりわけ着目すべき著作が、1959年6月に刊行された『社会学入門』である。同書は光文社の「カッパ・ブックス」レーベルから社会学入門書として刊行された短い著作だが、その内容は、“半自伝的な社会学論”と称すべきものである。清水はその中で、基本的な社会学の概念や用語を解説しつつも、自身が少年期に何を見、何を感じたか、そしていかにして社会学と出会ったかという過去の体験談に叙述の過半を充てている。後の世代の証言から一定の反響を呼んだことはうかがえるものの、社会学的著作としては、やはり風変わりである。
このように、戦後の清水の社会学者としての歩みと自伝的な著述スタイルとは密接に結びついたものであった。それでは一体なぜ、清水はかくまで自伝の執筆を繰り返したのか。また、なぜ社会学的な著述においてすらこうした特異なスタイルを採用したのか。後の各章で詳しく検討する予定であるが、まず何よりも、それが清水の社会学者としての信条に基づいた選択であったことを確認しておく必要がある。まさに『社会学入門』のはしがきで、清水は次のように述べている。
この小さな書物は、本当の素人のために書いたものである。[……]同じ問題を取りあげるにしても、ただ論理にしたがってでなく、むしろ、私自身が出会った経験──といっても、貧しいものであるが──と結びつけて、これを読者に示すという方法を選んだ。それには、もちろん、読みやすくしようという意図もはたらいているが、それよりも、社会学は人生から生まれ、人生へ帰っていくという私の古くからの信念が物を言っているのだと思う。〔ルビ原文ママ、強調筆者〕
「社会学は人生から生まれ、人生へ帰っていく」。これは、1970年に同書が潮出版社から再刊された際にも「著者のことば」として表紙に刻まれている言葉である(1970・4)。このフレーズは、清水という人物の歩みを社会学者のそれとして理解する上で重要な手がかりとなる。
先にも見た通り、清水の社会学には、彼の時々の政治的立場の変動とともに揺れ動くものであったという評価がすでに同時代からつきまとってきた。しかしながら、そうした評価の多くは、清水がそもそも社会学という学問をいかなる営みとして理解していたかという基本的問題を回避したところでなされている。ここで清水が述べているように、もしそもそも彼にとって社会学それ自体が「人生から生まれ、人生へ帰っていく」営みとして捉えられているのだとすれば、まずは清水がこの「人生」という主題をどう把握し、またその上でそれを社会学という学問といかに結びつけていたのかを見直す必要がある。それを抜きにして、社会学者としての清水の歩みに対する評価は成り立たない。
【品治佑吉『人生と闘争──清水幾太郎の社会学』(白水社)所収「はじめに」より】