インドネシア発の怪奇幻想文学『美は傷』が描く百年の歴史(上)
記事:春秋社

記事:春秋社
インドネシアのある地方都市の書店で本書の原作Cantik Itu Lukaと出会ったのは、初版が出てまもなくのころだった。書棚で偶然この本を見つけ、表紙絵と本の厚さに魅力を感じて買って帰り、読み始めたとたんに冒頭の一文から惹きこまれた。それまでに読んできたインドネシアの小説のどれとも違う世界が展開していくはずだという期待でいっぱいになって、最後まで一気に読んだ。
複雑に絡み合う色とりどりの物語、たくさんの登場人物が入り乱れ、現実と幻想とおとぎ話が混在する猥雑なごった煮のような、坩堝のような世界がそこにあった。それでいて登場人物たちが妙に醒めたように見えるところにも、不思議な魅力があった。読み終わった後には、複雑怪奇な密林を通り抜けてその果てにたどり着いたような充足感が残った。
これはどうしても訳さなければならないと思い、どうにかこうにか全訳したものの、それをどうやって日本での出版という形にもっていけばいいのか皆目わからない。しまいには、インドネシアの代表的作家プラムディヤ・アナンタ・トゥールの一連の著作などの翻訳をなさっておられる押川典昭先生に訳稿を送りつけるという暴挙に出た。今思うと、ほんとうに冷や汗もので恐縮の至りである。それでも先生は丁寧に目を通してくださり、アドバイスをくださった。だが、以前インドネシア文学の翻訳出版支援をしてくれていた財団からの助成金が打ち切りとなったため、出版は難しいだろうとのことだった。
結局、共同出版という、いわば半自費出版の形態で、費用の関係上文庫本上下二巻で出版とすることになった。インドネシアでの初版発行から四年後の2006年のことである。ところが、それから二年足らずで日本の版元が倒産、日本語版『美は傷』は絶版となった。
その後、2015年には同作の英訳版が出版され、翌年には著者の二作目の長編Lelaki Harimau(『虎男』)の英訳版がインドネシア人作家の作品としてはじめてブッカー国際賞にノミネートされた。また同年、Cantik Itu Lukaがワールド・リーダーズ賞を受賞。2018年には、上記二作を含む著作活動に対してオランダのプリンス・クラウス賞が授与された。そうして日本語版が休眠している間に、エカ・クルニアワンはインドネシアを代表する作家のひとりとなっていった。
2014年に発表した小説Seperti Dendam, Rindu Harus Dibayar Tuntas(『怨恨のごとく、恋慕も完済すべし』)は、エドウィン監督、エカ・クルニアワン脚本、芹澤明子撮影監督で映画化され、スイスのロカルノ国際映画祭でグランプリに当たる金豹賞を受賞。日本でも『復讐は私にまかせて』の邦題で劇場公開されている。
日本語版絶版から十年近く経って、著者のエージェントから連絡があり、日本語版を復刊してくれる出版社を探すとのことだったので、その機会に改訳して訳稿をエージェントに送ったものの、それからも復刊元はなかなか見つからなかった。それがようやくこうして〈アジア文芸ライブラリー〉の一冊として、再び日の目を見ることができるようになった。この作品を見つけ出してくださった編集者の荒木駿さんには、どれほど感謝してもしきれない。またこの作品の旧訳や、私がこれまであちこちでこの作品について書いてきたものに目を通してくださり、なにかと応援してくださり、紹介の労をとってくださった方々にも、心から感謝を申し述べたい。
2021年、国際交流基金アジアセンター(当時)主催のオンラインイベント「アジア文芸プロジェクト〝YOMU〟」で、エカ・クルニアワン氏と、Cantik Itu Luka とインドネシア文学の日本語訳をめぐって語り合う機会を得た。このプログラムのなかで、エカ氏はCantik Itu Lukaを書いた動機について、「サルマン・ラシュディが『真夜中の子供たち』でインドを語り、ギュンター・グラスが『ブリキの太鼓』でドイツを語ったように、インドネシアについて広く語りたいと思った」と話している。若い野望に燃えて、プラムディヤ・アナンタ・トゥールが「ブル島四部作」でインドネシアが国家として独立を果たす直前で筆を置いたのなら、その後「インドネシアがどうやって子宮に宿り、生まれ、育っていったか」を書こうと思ったという。
十六世紀末、オランダ人が主に香辛料貿易を目的に、東インドすなわち現在のインドネシア共和国にほぼ相当する東南アジア島嶼部に到来するようになり、徐々に植民地支配を広げていった。その後第二次世界大戦が勃発、1942年には日本軍がオランダ領東インドに侵攻し、東インドは日本軍政下に置かれた。1945年、日本敗戦直後にインドネシア共和国が独立を宣言、だが再植民地化のためにオランダが戻ってきて、インドネシアは四年以上にわたる独立戦争に突入する。そうして1950年にようやく単一のインドネシア共和国が樹立された。
単一国家として歩み始めてからも、インドネシアは各地でさまざまな動乱を経験する。とりわけこの小説の舞台となったジャワ島に暮らす人々にとって大きな傷を残すことになった事件のひとつは、1965年に起きた9・30事件と呼ばれる軍事クーデターと、それに続く共産党員およびその支持者と目された人々の大がかりな虐殺だった。
9・30事件をきっかけに初代大統領スカルノが失脚し、第二代大統領スハルトの独裁政権が始まった。開発の名のもとに経済成長に力が注がれる一方、汚職・癒着・縁故主義が蔓延して政権は腐敗し、各地で反政府勢力を厳しく弾圧するなどの人権侵害が横行した。その人権侵害事件の多くは情報統制によって庶民の目からは隠されてきたものの、人々の不満は徐々に積もり、1998年にスハルトが大統領として七選されると、その不満は頂点に達して、首都ジャカルタで学生を中心とする大規模な反政府デモが発生。デモは一般市民も巻き込んで各地に波及し、一部は暴徒化して、経済的に豊かだと目されてきた華人市民を主な標的とした暴動が発生した。スハルトはついに大統領を辞任し、「うっかり政府の悪口を言うと消される」という恐怖を人々の心に植えつけ続けた独裁政権は終焉した。