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いま、アジアの文学を読む意味とは 〈アジア文芸ライブラリー〉刊行開始によせて

記事:春秋社

アジアの文学はいま、世界に広がりつつある
アジアの文学はいま、世界に広がりつつある

世界に広がる日本の文学…?

 村上春樹、川上未映子、多和田葉子、柳美里、松田青子、小川洋子……。近年、海外の主要な文学賞で日本人作家の受賞やノミネートが取り沙汰されることが増えてきているようだ。

 欧米で近年注目されているのは「日本文学」だけではない。アジア、アフリカ、ラテンアメリカといった欧米圏以外の地域の文学に注目が集まっていると言っていい。その背景には、これまで英語という単一の言語や、欧米という閉ざされた地域の文学ばかりに注目されていたことへの反省と、地域・言語を超えた多様な世界の文学に新しい表現を求めていることがある。

 近代/現代文学という営みがそもそも欧米に端を発するものであることは一旦脇に置くとしても、世界の各地で、それぞれの言葉で、人々は物語を紡ぎ続けてきた。しかし作品への評価はこれまで、欧米の主要な言語で書かれた作品に偏重していて、欧米の思考のあり方に依拠するものであった。こうした反省から(「ポリコレへの配慮」などではなく)、新たな表現や思考を求めて、世界に目を向けはじめている。(それなのにまだ、日本のマスメディアは日本人作家が受賞するかどうかにばかり注目しているのだろうか?)

「翻訳大国」の実像

 日本においては近代化の過程において多くの外国語や書籍が日本語に翻訳されたことで、多くの名作が母語である日本語で読め、さらに母語で高等教育を受けられる環境までもが整った。また日本語で書かれた書籍は潜在的には数千万人、現代では一億人を超える読者がおり、世界的に見れば比較的大きなマーケットである。そのために出版のインフラが充実したことも、私たちが翻訳作品を読む恩恵の礎となった。

 日本は「翻訳大国」とも言われる。もちろんまだまだ厚みの足りない言語はあるものの、主要言語だけでなく実はマイナーな言語の翻訳にも恵まれている。たとえばタイ語やチベット語などマイナーとされる言語でも、ジャンルによっては英語よりも日本語への翻訳の方が充実していることがある。当該の地域との文化的・経済的な交流が盛んであることに加え、日本にはそうした地域の言語と文化を専門的に学び、研究できる大学があることも大きな要因だ。そして翻訳が、熱意ある人々による、決して十分とはいえない報酬の仕事に支えられてきたこともまた事実である。

変わりゆく時代のなかで、文学は「不要」か?

 昨今、AIの発達や社会状況の変化によって、言語を学ぶことや文学を読むことの意味が問われるようになった。AIがあれば言語を学ぶ必要がないだとか、現代社会では文学よりももっと役に立つことがあるとかいう話をよく見かける。古典文学不要論が展開されては忘れ去られる、という光景もSNS上では大学入試シーズンの風物詩となった(かもしれない)。

 AIの専門家ではない筆者には本当に言語理解の機能がAIに代替しうるのかは分からない。しかし母語と異なる言語を学ぶことは、その語を用いる人とのコミュニケーションを可能にすることにとどまらず、母語だけを使っていては気付くことのなかった思考の枠組みに気付き、それを相対化すること、そして多様な物事の見方や考え方を身につけること、限られた視野から脱して思考することを可能にするものであるはずで、そのことはいかに技術が進歩しても、AIには代替しえないであろう。

 文学もまた、その地域でいかに人々が暮らし、思考してきたかを示す貴重な遺産である。その土地で、言語で生きた人々の文化や社会が織りこまれ、良いことばかりではないけれど慈しむに値する暮らしと、何に苦しんだり喜んだりしながら生きているのかが描かれる。人はそれを読み、そのなかに心に響くものを見つけては生きる糧とし、あるいはその意味が分からないまま日常に戻って、分からないなりに生きていく。いずれ読んだことさえ忘れてしまうこともあれば、何年も経ってからふと、その意味が諒解されることだってあるだろう。

 文学を読んだところで、納得のいく結論が出ることはほとんどないであろうし、正しいことが言えるようになるわけでもない。知的なパーティートークくらいはできるようになるかもしれないが、だからといってお金を稼ぐのに役立つ訳でもない。しかし、文学が答えを教えてはくれず、正解のない答えを投げかけることに終始するからこそ、既存の価値観や固定観念に囚われることなく、自由に思考することができるはずだ。

 残念ながらこの世の中には、そうした自由な思考を妨げ、好奇心に歯止めをかけるようなものが溢れている。柔らかいものばかり食べていれば咀嚼力が衰えていくように、目にする情報と人間の思考にも、同じことが言えないだろうか。雑事に追われる忙しい日々の中で、束になって襲ってくる、人を鋳型にはめようとする圧力に面し、誰かが整理してくれた言葉にばかり接していると、次第に好奇心も想像力も殺がれ、型に填まった思考しかできなくなっていくように思えてならない。

 文学――だけではない。映画でも演劇でも、美術でも音楽でもいい――を通じて、答えのないもの、今まで生きてきた誰もが答えにたどり着いたことのない問題に向き合って考えることは、私たちがこれから先、人生や仕事のさまざまなステージにおいて、答えのない問題や誰も乗り越えたことのない壁に突き当たったときに、生きのびる力になるはずだ。

情報の渦巻く世の中で、他者を理解するということ

 訪れたこともない、遠く離れた国のことを知りたいと思ったとき、どのようにして人はそれを知るだろう。膨大な情報の海にはいつでも手を伸ばすことができるようになった。いつ、どこで、なにが起こったのか、戦争や民族の名前も宗教も、瞬時に知ることができる。それによってニュースを理解することができるし、自分なりに行動を起こすこともできるようになる。しかし私たちは、ちょっとネットで検索しただけの情報を手に入れることによって、そこで生きる人の何を理解したと言うことができるだろうか。

 名付けられて整理された数々の知識は、そこで起きている対立や紛争や政変を整理する補助線になりこそすれ、その名前の下にある、私たちと同じように生きて思考する――それでいて私たちとは異なっている他者の――それぞれの生命、ひとつひとつの生活へと私たちの想像力をいざなってくれることはない。

 テロ、原理主義、反政府勢力、軍事侵攻、独裁政権……こうした文字が画面の上に躍るとき、往々にして私たちは、国家や宗教や民族といった、大きなかたまりのなかで物事を理解しようとする。大雑把な言葉は、その向こう側にあるはずの多様な人々をひとくくりにする。起きていることが凄惨な暴力や侵略行為であれば、その地に生きる人々のことまで、私たちとは違うもの、異質なもの、理解不能なものへと仕立て上げることさえある。

 文学は分かりやすい見取り図を提供してくれないかわりに、物事の複雑さを複雑なままに届ける。単純化された言葉によって忘れ去られがちな、ひとつひとつの命と人間性を思い出させてくれるのが文学の言葉だ。人はそれぞれに語るべき物語がある。異国で暮らす人々の言葉の片鱗にも、私たちの物語が共鳴するときがあり、魂のつながりを取り戻す瞬間がある。しかしそれは、安易な共感も理解も寄せ付けない。他者を知り、理解することがいかに難しいのかも、文学はまた示している。

アジアの文学を読む

 日本でもここ数年で、韓国文学や中華SFなどの話題作に恵まれ、アジアの作品が読まれるようになった。しかし人気ある地域やジャンルのものを除けば、いまだ多くのアジアの作品が翻訳され、読者のもとに届く時を待っている。

 地理的に近いだけではなく、文化的にも歴史的にも日本とのつながりの多いアジアの国々。これまで幾多の人と人とが出会い、言葉を交わしあってきた。その歴史には、侵略や対立といった負の側面も紛れもなく存在する。彼らの語る声を分かりやすいラベルによって整理するのではなく、まずは複雑なものを複雑なままに受け止めることは、緊張や対立が顕在化し、多くの問題を抱えるアジアのこれからを考えるために欠かせないことであろう。

 いつからか、世の中を敵か味方かに分け、自分と意見を共有しない者を抹消しようとするような不寛容な言葉の羅列や、誰かがすでに噛み砕いてくれた出来合いの言葉を使い捨てにして舌鋒鋭く切り捨てるような物言いが目に余るようになった。隣国で暮らす人や、同じ国で暮らすルーツの異なる人々へ向けられた、彼らの人間性を消し去るような言葉も珍しくない。しかし人間性を失ってしまったのは、どちらの側だろうか。

 人は困難の中でも恙ない暮らしの中でも物語る力を持っていて、それを伝える欲求を持っているし、どんなに離れていても、人は誰かの言葉に耳を傾ける力を持っている。そうして物語のなかに、自分の生きてきた人生の記憶と結合する何かを見つけたとき、そこで魂は小さなつながりを見いだすことができる。私たちは人間としてつながり続けるために、言葉を紡ぎ、また誰かが書いた言葉を読む。時代や地域を超えても、それは変わらない。まずは、隣人の言葉に耳を傾けることからはじめよう。

〈アジア文芸ライブラリー〉紹介パンフレット
〈アジア文芸ライブラリー〉紹介パンフレット

チベット発、シスターフッドの物語

 シリーズ〈アジア文芸ライブラリー〉で最初にお届けするのはツェリン・ヤンキー著『花と夢』(星泉訳、2024年4月刊行)だ。チベット自治区で女性作家がチベット語で書いた初めての長編小説である本作は、ラサのナイトクラブでセックスワーカーとして働き、場末のアパートで身を寄せ合って生きる4人の女性たちの姿を描いたシスターフッドの物語である。

 彼女たちは法律に保護されることもなく、社会からの偏見に晒され、病気と隣り合わせで日々を暮らしている。4人はそれぞれに異なった事情を抱えながら都市にやってきて、性産業へと吸い寄せられていった。作品の背景には伝統的な性別役割分業や、急激に変わりゆく都市、農村の困窮、ミソジニーなど現代のチベット社会が抱える問題が存在しているが、本作は彼女たちを構造的な搾取の被害者という一面だけで捉えたりはしないし、ものごとを単純な善悪や被害と加害に切り分けることもせず、慈愛に満ちた筆致で彼女たちの交流を描き出す。

『花と夢』装幀イメージ 装画:荻原美里 装幀:佐野裕哉
『花と夢』装幀イメージ 装画:荻原美里 装幀:佐野裕哉

 また、5月刊行予定の朱和之著『南光』(中村加代子訳)は、日本統治時代台湾に生まれた台湾の写真家・鄧南光をモデルとした歴史小説。内地留学先の東京でライカと出会い、モダン都市東京や、戦後台湾の動乱を独自の視点で撮り続けた南光と、台湾写真史の重要人物などを鮮やかに描き出す。日台の歴史的な繋がりだけでなく、芸術写真の裏側にある人間模様や、海を挟んだ隣国で起きた事件の元で人々が何を思い、暮らしていたのかに思いを馳せるきっかけとなるだろう。

 マレーシア出身のヴァネッサ・チャンが、イギリス統治下から日本占領下のマラヤで日本のスパイに協力した主婦と、その家族に起こった悲劇をスリリングに描いた『わたしたちが起こした嵐』(6月刊行予定)や、ブッカー受賞経験のあるインドの作家・政治活動家、アルンダティ・ロイが20年ぶりに発表した『至上の幸福をつかさどる家』(2024年秋刊行予定)など、ジャンルや地域を越えて作品を収録する予定である。

〈アジア文芸ライブラリー〉刊行ラインナップ
〈アジア文芸ライブラリー〉刊行ラインナップ

 この世界にはたくさんの言葉が飛び交っているのに、言葉で伝えられることはあまりに少ない。どんなに言葉を尽くしても人と人とは分かり合えないことがあることを、私たちは知っているし、言葉を通して他者を理解することがどれほど難しいか——それがほとんど不可能に近いことも、私たちはまた知っている。それでも、伝えることも理解することも諦めてはならない。文学は、全く自由でない表現の、その限界の少しでも向こう側へと到達しようと世界中の人々が重ねてきた努力の痕跡である。すぐに分かろうとしなくてもよいから、まずは丁寧にその言葉と向き合うこと。情報が氾濫し、生み出されては使い捨てられていく現代で、それが平和のための、はじめの一歩になるであろう。

(文:春秋社編集部)

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