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生きた台湾社会の実像に迫る 倉本知明『フォルモサ南方奇譚』(評者:菊池秀明)(後編)

記事:春秋社

著者・倉本知明氏が暮らす高雄の港(撮影:倉本知明)
著者・倉本知明氏が暮らす高雄の港(撮影:倉本知明)

(前編からつづく)

牡丹社事件といまも続く緊張関係

 ところで本書が南台湾を取り上げた一番の特徴は、この地に住む原住民と外国人との出会いに多くの紙幅を割いていることだろう。とくに1874年に日本が行った台湾出兵で攻撃の対象となったパイワン族(排湾族)の物語は興味深い。宮古島の島民が台湾南部の海岸線に漂着し、殺害された牡丹社事件の名前は日本でもよく知られているが、実際に漂流民が接触したのはクスクス社の人々だった(日本側は「大耳人」と呼んだ)。彼らは漂流民に水と食糧を与え、仲間同様に扱ったが、疑心暗鬼となった漂流民は無断で村から逃げ出した。これに怒ったクスクス社の人々は後を追い、牡丹社で客家商人に庇護を求めた漂流民五十四人を斬殺した。

 その後、事件現場からやや離れた統埔に墓が作られ、「大日本琉球藩民五十四名之墓」という墓碑が立てられた。評者もそこを訪ねたが、近所の保力村には襲いかかる原住民から漂流民を救おうとする客家人リーダーを描いた壁画が残されていた。事件は150年も昔の話だが、原住民から「差別だ!」と抗議の声があがりそうなこの壁画には、客家を含む外来の人々と原住民の緊張関係が「いま」なお続く問題として存在していることを痛感させられた。

 牡丹社事件に関連するエピソードとして、もう一つ紹介されているのが台湾へ出兵した日本軍に捕獲され、日本へ拉致された原住民の少女オタイ(本名はヴァヤユン)の物語である。オタイについては山路勝彦『近代日本の植民地展覧会』(風響社、2008年)も言及しているが、日本で和服に着替えさせられ、片言の日本語を教えられた後、故郷へ戻された彼女の悲劇的な最後は本書で初めて知った。また台湾出兵は「出草(首狩り)」の習慣を持っていた台湾原住民に対する日本人の「人食い人種」という偏見を助長し、大阪の博覧会で生態展示が行われた人類館事件(1903年)につながっていく。そもそも日本の出兵はアメリカの駐アモイ領事チャールズ・ルジャンドルの発案によるもので、日本軍の上陸地点に至るまで綿密に計画されていた。これらの史実はイギリス総領事のハリー・パークスが出兵に反対したことと併せて記憶されるべきだろう。

従軍カメラマン松崎晋二によって撮影されたオタイの写真。(森田峰子『中橋和泉町 松崎晋二写真集』より)
従軍カメラマン松崎晋二によって撮影されたオタイの写真。(森田峰子『中橋和泉町 松崎晋二写真集』より)

抵抗運動、信仰と弾圧

 台湾原住民と日本の関係について、もう一つ紹介されているのが1913年に浸水営一帯で発生した南蕃事件である。台湾総督府の佐久間左馬太が進めた「理蕃政策」と呼ばれる厳しい原住民抑圧策に対する抵抗として生まれたこの事件は、当時「身に寸鉄帯びることなく」原住民地区に入って調査をしていた人類学者森丑之助の活動と同時代に発生した史実として語られる。だが台湾総督府は南蕃事件に徹底した弾圧姿勢で臨み、森丑之助も調査の成果が関東大震災で焼失すると失意のなか入水自殺してしまう。結果として森の足跡が南蕃事件共々人々の記憶から葬り去られたという事実は、台湾社会のなかで南台湾が置かれた周辺的な位置を象徴的に示しているように思われた。

 ほかにも日本統治時代最大の抵抗運動として有名な西来庵事件(1915年)と瘟神として台湾南部で広く信仰されている王爺との関連など、興味深い記述は多い。西来庵事件の中心人物だった余清芳は扶鸞と呼ばれる降神儀礼を通じて、「五福王爺」の加護を得られると唱えて武装蜂起したが、日本の軍と警察によって鎮圧され、捕らえられた800名以上が処刑された(ちなみに事件の舞台となった台南市玉井について、現在日本のガイドブックはマンゴーの産地として紹介し、事件については殆ど触れていない)。当初台湾総督府は現地習慣による信仰を認める方針を取っていたが、霊媒師との関係が密接な王爺については廃絶すべきと考えたという。だが現在でも「送王船」の盛大な儀礼が執り行われるなど、王爺信仰は南台湾の人々に深く根づいていると述べている。

東港東隆宮の「送王船」の様子(撮影:倉本知明)
東港東隆宮の「送王船」の様子(撮影:倉本知明)

現在に問いかける抵抗の歴史

 なお台湾で抵抗運動への弾圧が行われる度、マラリアなどに罹患して死んだ日本軍の死者は多数にのぼった。当時台湾では疫病が猖獗を極めていたが、人々は死んだ日本兵が「鬼」となって疫病の原因になったと考えた。そこで彼らは日本の「鬼」を「好兄弟」として祀り、その加護を求めるようになったという。近年、太平洋戦争中に台湾近海で亡くなった日本軍人を神として祀る「日本神」が多く紹介され、なかには日本から「神」となった軍人の遺族を招いて共に供養したというニュースが報道されている。その祖型は植民地時代初期の軍事行動で死んだ日本人将兵の慰霊にあり、太平洋戦争末期の日本軍人を地域の守護神として祀るようになったのかも知れない。

 これら台湾で続いた大小さまざまな抵抗運動に対して、総督府は「土匪」討伐と称して苛酷な弾圧を行った。その様相を倉本さんは現在イスラエルがパレスチナで行っている虐殺と共通すると考え、学生にそうした視点を投げかけてみたという。だが「同胞」を謳う隣国から侵略を受けたウクライナを自国の未来と重ねて考える学生は多かったものの、シオニズムという植民地主義にさらされているパレスチナを自分たちの歴史と結びつけることのできた者は少なかった。植民地主義に対する想像力を鍛えることは容易ではないのだ。

ある農民運動の指導者

 このように本書は倉本氏がいま、現地に身を置く中で深く理解した南台湾の社会と人々を描いた好著であるが、もう一つ紹介しておきたいのは日本統治時代の砂糖をめぐる農民運動と共産主義者の活動である。

 日本の植民地だった台湾で米と砂糖の生産が主要産業だったことはよく知られている。総督府の招きに応じて台湾産砂糖の品種改良を行った新渡戸稲造は、彼の指示に従わない台湾農民を桃太郎に征伐される鬼になぞらえ、事業の実行を主張したと言われる。だが1920年代に台湾の地位向上をめざす知識人が台湾文化協会を設立して各地で啓蒙活動を行うと、わずかな利益でサトウキビ栽培を余儀なくされた農民たちは抗議の声をあげるようになった。

 高雄の豪商である陳中和が製糖業拡大のために農民に土地の引き渡しを要求すると、啓蒙活動の影響を受けた人々が小作人組合を結成し、公学校で教師をしていた簡吉に協力を求めた。バイオリンを愛する活動家だった簡吉はこれに応え、土地の引き渡し要求を撤回させることに成功した。

 1925年にサトウキビの買い取り価格をめぐって台湾有数の大富豪である板橋林家の経営する製糖会社と対立していた彰化県二林蔗農組合の農民たちは、工場側の強制刈り取りを阻止しようとして警察に逮捕された。この農民争議で一方的な処分が決まると、台湾農民組合を結成した簡吉は彼らを救援するため東京へ足を運び、人権派弁護士だった布施辰治に裁判での弁護を求めた。

 このとき布施は「生きべくんば民衆と共に、死すべくんば民衆のために」と言って簡吉を激励したと言われる。その後、台湾農民組合が左傾化すると、台湾共産党を弾圧した台湾総督府は農民組合の幹部たちを一斉検挙し、簡吉も懲役十年の判決を受けた。さらに戦後に国民党が台湾へやってくると、簡吉は農民争議を支援した。また1947年に台湾人と国民政府が衝突した二・二八事件が発生すると、彼は台湾中部の山岳地帯に入り、中国共産党の地下党員となって国民政府に対する抵抗を続けた。だが1950年に蔣介石の白色テロのもとで逮捕された簡吉は、「非合法な手法で国憲を変更し、政府を転覆しようとした」という罪状によって銃殺刑に処せられてしまう。

歴史の狭間から見えてくるもの

 こうした波瀾万丈の人生は簡吉あるいは本書に登場する人々に特有な例外だったのだろうか。たまたま最近評者は屏東県佳冬村の蕭家を訪問するチャンスを与えられた。その村の出身である蕭光明は六堆の副総理として日本に抵抗し、自分の屋敷で侵攻する日本軍と一戦を交えた。また彼の子孫である蕭道応は台北帝国大学(現在の台湾大学)医学部を卒業すると、エリートとして約束された将来を捨てて大陸へ渡って抗日運動に従事し、二・二八事件が起こると中国共産党の地下党員として国民政府に抵抗した。

 これらの事実から明らかなことは、本書で紹介された人々は南台湾の歴史において決して孤立した存在ではなかったということだろう。彼らはくり返し立ち現れた外来の支配者(外来政権)に対して、自分たちの生活世界を守るため粘り強く抵抗する気骨を忘れなかった。こうした反骨精神こそは、「上から見た台湾史」に決して回収されない南台湾社会の醍醐味ではないだろうか。

 こうした歴史の舞台に埋もれてしまった英雄たちの物語を掘り起こし、私たちに「いま」をどう生きるべきか問いを投げかけたことに本書の魅力があると言えるだろう。ぜひ多くの読者が手に取ってほしい一冊である。

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