仏教史にみる最初の大きな展開――パーリ語初期韻文経典よりみて(下)
記事:春秋社
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ゴータマ・ブッダや直弟子たちの最古の仏教と、それに続く仏教との間にはどのような展開がみられるのかを考える場合、散文経典など後代の資料によるのではなく、まずは初期韻文経典群の最古層経典と古層経典以降との比較研究に基づくべきである。
初期韻文経典でも最古層経典には、苦しみから解き放たれようと自律して日々厳しい修行を続けたゴータマ・ブッダや、追体験した直弟子たちの教えが説かれている。それに対して、古層経典以降になるとすべての仏教者の理想的支柱としてゴータマ・ブッダ、教え、僧伽(仏教教団)をよりどころとし、苦しみから解き放たれるために日々正しい生活を実践することが説かれるようになり、仏教修行者であってもブッダになることを目的とすることは必須でなくなった。この理想的支柱は後に三宝と称されるが、その成立は悟りをめざしたゴータマ・ブッダや直弟子たちの仏教がゴータマ・ブッダ、その教え、僧伽をよりどころとする仏教へと変貌を遂げたことを示している。
こうした展開は、ゴータマ・ブッダや直弟子たちの仏教を継承しつつも、それとは宗教上異なった仏教へと変化したものと認識しておかなければならない。これ以降、ゴータマ・ブッダは開祖と明確に位置づけられ、その存在を主軸とした仏教が確立され、その理想化と偉大化が始まり、教えは教理化への道を辿り、僧伽という体制が整えられていく。このように、三宝の成立は仏教史における最初にして極めて大きな意義をもつ転換点といってよいであろう。この事実を正しく認識することは、最古の仏教のみならず仏教の歴史を理解する上で不可欠といえる。
こうした背景には、恐らく当時の仏教修行者の実情や僧伽の確立など、仏教に変化をもたらす理由がさまざまあったものと推察できる。中でも、古層経典以降になると世俗性を断ち切れず堕落していく仏教修行者や、修行の困難さに苦悶する仏教修行者の姿が数多く説かれるようになることには注目したい。ゴータマ・ブッダや直弟子たちの厳格な仏教が次第に失われていく背後には、こうした仏教修行者の存在があったものと考えられる。仏教修行者にこうした変化が起こったことで当時の仏教がさまざまな宗教活動において大きな影響を受けたということは疑う余地もない。なぜなら、仏教修行者の変化は仏教そのものが変化する主たる根拠となるからである。
最古層経典の時代のように個のレヴェルで宗教活動した時代とは違い、古層以降の経典になると仏教修行者も増加して多様化し、時には集団として宗教活動するようになるだけに、そうした仏教修行者の存在は仏教の歩む方向性にさまざまな影響を及ぼしたものとみられる。そう考えれば、三宝はそのような状況を改善すべく新たな体制を構築するために生み出されたものではないかと推察できる。
こうした展開に伴って、古層経典以降になるとゴータマ・ブッダの理想化などを始めとしてさまざまに変化が生じるが、ここでは教えが教理化していく幾つかの事例を具体的に眺めてみたい。ゴータマ・ブッダが最初の説法で説かれたと伝えられる四聖諦は、最古層経典では未だ四種に区別する方向性や教理的なまとめ方はみられないが、古層経典以降になると四聖諦の内容はまとまって説かれるようになり、さらに八聖道とも一体化し、いわゆる四諦八聖道といわれる修行体系が定着する。
また、この八聖道や五根、四念処、七覚支などは三学とは別に古層経典以降に新たに設けられた、後に三十七道品といわれる修行法であるが、これらは時代と共に変化しつつあった仏教修行者に相応しい修行法を提示する必要性から成立したのではないかと推察できる。
他にも、古層経典になると苦しみが起こるまでの連鎖的な関係を説く、後に縁起説といわれる祖型が渇愛を起点として説かれるようになり、「煩悩」や「随眠」といった概念や、煩悩が分類化され「五蓋」なども説かれるようになる。
また、最古層経典ではこの世で経験する人生の儚さを感じるままに具体的に表現していたが、古層経典になるとこの世の移り変わる現象は「無常」と表現され、この世の様相は「行」という新しい概念によって表現され始め、新層経典になるとこの概念は新たに設定された「蘊」という用語に言い換えられ、五蘊説が成立する。「蘊」以外にも「処」や「界」などによって最古の仏教の教えはさまざまに教理化される。
また、悟りへと向かう境地の階梯に関しても、古層経典から次第に教理化され、欲界、色界、無色界という三界説の成立へと向かう。
こうした事例からもわかるように、ゴータマ・ブッダや直弟子たちの宗教体験に基づいて説かれた教えも、古層経典以降になると優れた仏教修行者たちの知性によって解釈され、教理化され、その成果は後の仏教思想の成立に大きな役割を果たすことになる。
このように、古層経典以降になるとゴータマ・ブッダや直弟子たちの最古の仏教もまるで新たな仏教が興ったかのように変貌し始めるのである。