『彷徨 あなたが選ぶ赤い靴の冒険』のなかを彷徨う 翻訳家・太田りべか(前編)
記事:春秋社
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だれもがこれまで幾度も分かれ道に立ったことがあるはずだ。どれほどささやかな人生にも、分かれ道は繰り返し出現して、私たちに選択を迫る。あまりにもささやかすぎて、それが分かれ道であることにも、今自分が選択を迫られていることにも気づかない場合も少なくない。あとになって、ああ、あれが分かれ道だったんだと思い知る。なにげなく選んだ道を通ってきた結果、思いがけないところに出てしまったことに気づいたりする。
その昔、たとえとしての分かれ道ではなく、リアルな分かれ道に立ったことがある。まっすぐ目的地に向かう道と、少し遠回りになるけれど右に曲がって、ちょっと懐かしい場所を通っていく道と。もちろんそのときは、それが後々まで影響を及ぼす分かれ道になるとは思ってもいなかった。まだ時間もあるし、ちょっと懐かしいし、というだけで右に曲がる道を選んだ結果、それから数十年経った今、こうしてインタン・パラマディタの『彷徨 あなたが選ぶ赤い靴の冒険』を翻訳することになった。もしもあのとき、まっすぐ行く道を選んでいたら、インドネシアと関わりを持つことも、インドネシアに住んでインドネシア語を学ぶことも、インタン・パラマディタの作品を読むことも、おそらくなかっただろう。
もしもあのとき分かれ道で別の道をとっていたら? それは想像してみるしかない。後戻りしてやり直すことは、たぶんできない。この『彷徨』では、それができる。「もしも」の先が体験できてしまう。この物語の主人公は「あなた」。物語のあちこちに現れる分かれ道で、「あなた」は自分の行きたい道を選ぶことができる。かつてアメリカのバンタム・ブックスから出版され、日本語にも翻訳された『きみならどうする?』シリーズのようなゲームブック形式で、『彷徨』の物語は進行する。インタン・パラマディタは、「旅と移動についての政治性と特権について問いかける大人版ゲームブックを作りたかった」と語っている。
物語は、ジャカルタで英語教師をしている二十代後半の女性「あなた」が、悪魔にもらった赤い靴をはいて旅立つところから始まる。先へ進んでいくうちに、それぞれの分かれ道でどの道を選ぶかによって、あなたはだれにでもなり得ることに気づく。宙ぶらりんのまま待合室でただ待ち続けることになるかもしれないし、不法就労ながら無我夢中で働いて、いつか質素なアパートで世界を魅了する物語を生み出す作家になるかもしれない。同性のパートナーと胸躍る冒険に乗り出すかもしれないし、容姿端麗でリッチなセレブ・ウスタズ(その正体がなんであれ)の妻にだってなれるかもしれない。
そしてあなたの歩く道筋は、ときに交錯する。はじめて降り立った空港ですれ違ったあの人は、もしかすると分かれ道であなたが選ばなかった道を選んだ、もうひとりのあなたかもしれない。そうやって行きつ戻りつしているうちに、物語のなかをまさにうろうろと彷徨っている気分になってくる。
でもこの物語のおもしろさは、そういう仕掛けだけにあるのではない。あちこちの細部に潜む痛切なまでのリアルさが、あなたの彷徨を牽引していく。
たとえば「コスモポリタン的冒険についての注意書き」と題された章がある。いわゆる先進国の国民として生まれて世界最強のパスポートのひとつを手にするあなたは、この章を読み飛ばしてしまうかもしれない。一方、グローバルサウスのどこかの国民として生まれたあなたにとって、この章に書かれていることは切実で真剣な問題だ。国家の方針として国籍差別が堂々と行われていることを、おそらく先進国の人々の多くは意識しない。日本では「親ガチャ」なる言葉が一時流行ったらしいが、「国籍ガチャ」は精神的問題ではなく、現実問題として堂々と存在している。どこの国籍を持って生まれたかによって、その後の可動域が大きく変わってくる可能性がある。
旅の途上で、ほとんどどの道を選んでも、あなたは不法滞在やそういう状態になる可能性という問題に向き合うことになる。境を越えていこうとする者にとって、それは常につきまとう問題だ。とりわけあなたが、世界の政治的・経済的力関係において「特権」を与えられていない国のパスポートを手にしている場合は。旅する特権を持たないグローバルサウスのありふれた一庶民として生まれた有色人種の女性。これはそんなあなたが旅をし、境を越えようとし、ガラスの天井を打ち破ろうとしてもがく物語なのだ。
あなたの旅は、たとえばエリザベス・ギルバートの回想録を映画化したジュリア・ロバーツ主演の『食べて、祈って、恋をして』で描かれるような、いわゆるグローバルノースがグローバルサウスに対して抱くステレオタイプな観光地の絵葉書めいたエキゾティシズムに彩られた旅とは対極にある。それは、グローバルノースの少なからぬ人々がグローバルサウスに対して無意識のうちに抱いているかもしれない「この人たちはバカでなにも知らない遅れた人々だから教え導いてやらねばならない、テクノロジーだけでなく文化・文芸も含めて援助し育ててやらねばならない」といった上から目線の使命感、あるいは勘違いとは無縁のものだ。「この人たちはなにも持っていないけれど美しい瞳をしている」というような、やはり上から目線のロマンティシズムとも相容れない。「エキゾティックとは、女、養子、あるいは第三世界から来たそのふたつの組み合わせに対する婉曲表現である」と言うとき、インタン・パラマディタはそれらを粉砕していく。そこにあるのは、ひりひりしたリアルだ。
でも、あなたはいわゆる被害者として、さまざまな理不尽に対して果敢に立ち向かう正義の人として、抑圧され虐げられた弱き立場の人間として英雄的に描かれるわけではない。ここで描かれるあなたはごくありふれた人間で、夢は見るくせに、その実現に向けてさほど努力するわけでもなく、どちらかというと怠け者でだらしなく、計算高くて打算的で優柔不断で現実的だ。それは、世界中のどこにでもいる「あなた」だ。
(後編へ続く)