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文系のための科学本ガイド②『知性の未来 脳はいかに進化し、AIは何を変えるのか』(評・橘玲さん)

記事:白揚社

橘玲さんに『知性の未来――脳はいかに進化し、AIは何を変えるのか』(マックス・ベネット 著、恩蔵絢子 訳、新潮社)をご紹介いただきます。Illustration & design by 長尾和美(Ampersand Inc.)
橘玲さんに『知性の未来――脳はいかに進化し、AIは何を変えるのか』(マックス・ベネット 著、恩蔵絢子 訳、新潮社)をご紹介いただきます。Illustration & design by 長尾和美(Ampersand Inc.)

5つのブレイクスルーで描き出す、知性の歴史

 知性について考えるときに線虫を思い浮かべるひとはほとんどいないだろう。だがわたしたちの脳と、線虫の神経系は進化によってつながっている。線虫にはニューロンがあり、その仕組みは脳のニューロンと同じなのだ。それに対して植物や菌類はニューロンをもたないから、仮に「知性」があったとしても、それはわれわれが想像するのとはまったく異なるものだ。

 同様に脊椎動物である魚の脳は構造的にはヒトの脳とほとんど同じだし、ラットの脳とのちがいはほんのわずかな修飾がなされているだけで、チンパンジーなどの霊長類では、脳のちがいは大きさ以外にはほとんどなにもない。

 マックス・ベネットは『知性の未来 脳はいかに進化し、AIは何を変えるのか』(恩蔵絢子訳/新潮社)で、「知性の本質は進化の歴史のなかの5つのブレイクスルーで説明できる」というコロンブスのタマゴのような主張をしている。こんな大胆なことをいえるのは、ベネットがベンチャー企業の創業者で、アカデミズムの部外者だからだ。そんなベネットは、消費者の購買行動を予測するAIシステムを構築するなかで人間の脳に興味をもつようになり、一流の研究者たちとの交流を通して本書を書き上げた。

『知性の未来 脳はいかに進化し、AIは何を変えるのか』
『知性の未来 脳はいかに進化し、AIは何を変えるのか』

『知性の未来』にはきわめて刺激的な仮説が次から次へと出てきて、エンタテインメントのように面白いが、ここでは5つのブレイクスルーを簡単に紹介してみよう。

 第1のブレイクスルーは、細胞呼吸をする生物がニューロンと筋肉によって移動できるようになったことだ。こうした動く生き物(動物)はいずれも、前部に口、脳、主な感覚器官(目や耳など)を、後部に老廃物の排出口をもつ左右対称のボディプランを進化させた。自動車、飛行機、ボートなど人間がつくったほとんどすべての移動手段が左右対称であるように、これがもっとも効率的な運動システムなのだ。

 左右対称の身体を「操縦」するには、アクセル(興奮性ニューロン)とブレーキ(抑制性ニューロン)、そしてどの方向に進むのかのセンサーが必要だ。わずか302個の神経細胞しかもたない(ヒトの神経細胞は860億個)線虫のC. エレガンスですら、この3つの機能をもっている。

 線虫は、センサーが「良い(餌の匂い)」と判断した方向に進み、「悪い(銅の匂い)」と判断した方向から遠ざかる。刺激の良さ・悪さを判断するこの感情(affect)が、善悪の起源だ。

 第2のブレイクスルーは5億4000万年から4億8500万年前の太古の海のなかで起きた。カンブリア爆発と呼ばれるこの時期に捕食という進化的軍拡競争によってさまざまなタイプの動物が生まれたが、そのなかで自然淘汰を生き延びたのが脊椎動物だった。

 5億年以上前の脊椎動物であるヤツメウナギには前脳、中脳、後脳という3つの主要構造があり、前脳は皮質・大脳基底核と視床・視床下部という2つのサブシステムをもっている。この構造はヒトの脳に似ているどころか、ほとんど同じで、これによってニューロンをまとめて集中回路型にし、より効率的に身体を動かすことができるようになった。

 最初期の脊椎動物である魚にも、「強化学習」によってつくられる知性がある。良いことにつながる行動を強化し、悪いことにつながる行動を罰することで、試行錯誤しながら正しい(生存と生殖にとって有利な)選択を学習するのだ。

 強化学習では、より多くの試行錯誤をした個体ほどよりよい行動ができるようになる。そのためには、過去の成功体験を漫然と繰り返すより、新しい体験を追い求めたほうが有利だろう。新奇性を追求するこの傾向が「好奇心」だ。

 第3のブレイクスルーは温血の哺乳類で、捕食動物である恐竜が支配する時代に独自の知性を進化させた。温血はより多くのエネルギーを必要とするが、それによってニューロンの電気信号伝達速度を上げ、複雑な計算が必要な「シミュレーション」が可能になった。

 強化学習では実際に試行錯誤しなければならないが、シミュレーションは行動する前に、その行動がどのような結果を生じさせるかを予測する。この代理的試行錯誤によって、哺乳類は揺れる枝の上など、不安定な場所でも素早く移動できる。それに対して冷血の爬虫類は、事前の動きを計画して細かな運動をすることが苦手で、樹上では生活できない。こうして初期の哺乳類は、恐竜の脅威から逃れることができたのだ。

 そしてこのシミュレーション能力は、過去の出来事を思い出すこと(後悔)や、未来の出来事を想像すること(不安)へと拡張された。

 第4のブレイクスルーは、霊長類のような社会性の動物でメンタライジングが進化したことだ。ヒエラルキーのある濃密な共同体で生きていくためには、相手(とりわけ上位の個体)がなにを考え、なにをしようとしているかを知ることが重要になる。

 このようにしてチンパンジーなど霊長類は、他者の心をモデル化する「社会脳」をもつようになった。このメンタライジングは、シミュレーションのなかに自分自身を投影することで「自己」を生じさせた。

 第5のブレイクスルーはヒトの発話で、喉頭・声帯の進化によって音声言語を扱えるようになった。ヒトとチンパンジーの脳にはスケール以外のちがいはほとんどないが、発話の能力を獲得したことでヒトは共通の神話を形成し、お金、神々、企業(法人)、国家のような架空の概念(共同幻想)を操り、文化・文明を生み出した。

 本書の最後でベネットは、わたしたちは知性の物語の終わりを生きているのではなく、それはまだ始まったばかりだという。地球上の生命は40億年前に誕生したが、太陽が死を迎えるまでには70億年、宇宙に新しい星が形成されなくなるまで1兆年、銀河系がばらばらになるまでまだ1000兆年もの時間がある。だがこの第6のブレイクスルーの主役は人間ではなく、ニューロンの処理速度や食料から分解できるカロリー、脳サイズの制約などから解放されたシリコンベースの知性、すなわちAIになるのだろう。

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