建物の「窓」から歴史が見えてくる 『建築でたどる西洋史』に学ぶフィレンツェ・ヴェネツィア
記事:朝倉書店
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歴史年表で住宅に関する出来事を探してみても、めぼしい情報はあまり得られない。このことは特にルネサンスの時代に当てはまるものの、むろん注目に値する住宅が建てられなかったわけではない。ただし、中世に町並みが形成されていた都市では、新築よりも増改築のほうが多かっただろう。イタリアの中世以降の上流階級の住宅は、都市型のパラッツォ(palazzo)と田園型のヴィッラ(villa)とに大きく分けられる。パラッツォという言葉はローマ皇帝の宮殿が存在していたパラティヌスの丘を意味するラテン語のパラティウム(palatium)に由来し、英語のパレス(palace)に相当する。ただし、宮殿のみならず庁舎などの公共建築も含まれるので、そのままパラッツォと表記する。
イタリア中世末期のパラッツォとして、ここでは14世紀後半のフィレンツェにおけるパラッツォ・ダヴァンツァーティ[図1]を挙げておこう。これはもともと、毛織物商組合の裕福な商人であるダヴィッツィ家の邸宅として建てられたものである。フィレンツェでは、1348年のペスト流行によって人口が激減し、あらゆる建設事業がしばらく中断された。けれども、大聖堂の建設は1355年から再開され、1380年には身廊までが完成していた。それゆえ、14世紀後半における市内の建設事業すべてが停滞したわけではなく、この時代に建てられた住宅建築も少なくはなかった。
フィレンツェの毛織物工業については、1378年に下層労働者が起こしたチョンピの乱が有名であるが、同地における党派や階級ごとのさまざまな争いは13世紀から始まり、14世紀になっても絶えることがなかった。ちなみに、同時代のイングランドとフランスは百年戦争(1337─1453)を繰り広げており、その原因の一つに毛織物産業で栄えるフランドル地方をめぐる対立もあった。当時のフランドルと北イタリアは毛織物の二大産地だったのである。
このパラッツォは、1516年にバルトリーニ家、1578年にダヴァンツァーティ家の所有となった。現在は博物館として一般公開されており、内装や家具からは中世末期の生活が見てとれる。通りに面した外観は、左右対称に開口部が並ぶ5層構成となっており、第1層は三連アーチで開放されている。とりわけ注目に値するのは、第1層に見られる切石積みの滑面仕上げである。この仕上げでは壁面が平らになるため、ていねいに加工された石材を一つずつ積み上げてつくるよりも、薄く大きな石板を貼り付けた後で目地を刻むことが多い。この場合、表面の石材は構造材ではなく化粧材となる。なお、ポンペイなどの古代住宅では室内にも滑面仕上げなどを模した壁画の例がしばしば見られ、「第一様式」と呼ばれている。これは手本とされたヘレニズム諸国の宮殿が、実際に大理石などで飾り立てられていたことを示している。
一方、凹凸の激しい粗面仕上げ(ルスティカ仕上げ)の場合は、巨大な切石を一つずつ積み上げてつくるのが一般的である。しかし、巨大な切石は高価であることから、フィレンツェのパラッツォでは粗面仕上げがステータス・シンボルとみなされた。実際に、政庁舎であるパラッツォ・ヴェッキオ(1299年着工)のほかに、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ(1396─1472)設計のパラッツォ・メディチ(1444年着工)をはじめとするルネサンスのパラッツォでも多く採用されている[図2]。ミケロッツォが主に手本としたのが、地元中世の建築であるのか、あるいはアウグストゥス帝のフォルムなどの古代ローマ建築であるのかは定かでない。ただし、メディチ邸では外壁の第2層は滑面仕上げ、第3層は目地も見えないように仕上げられ、全体としてのグラデーション効果が重視されている。
また、外壁全体にわたって滑面仕上げが施された例としては、レオン・バッティスタ・アルベルティ(1404─72)設計のパラッツォ・ルチェッライ(1446年以降着工)が有名である。この場合は、コロッセウムを連想させるようなオーダーの積み重ねが、3層にわたって採用されたためと考えられる[第1章の図9参照]。滑面仕上げとオーダーの積み重ねは、のちに他の都市でもしばしば採用されたものの、このパラッツォがフィレンツェで手本とされることはなかった。というのも、宗教建築をイメージさせる矩形の戸口や窓などは住宅建築にはふさわしくないとみなされたからである。
ダヴァンツァーティ邸の平面図[図3]をみると、敷地の条件にしたがって全体は不規則な形となっている。L字型の中庭[図4]からは、持送りで回廊が張り出していることがわかる。この点は入口を中心軸として左右対称性が重視されたルネサンスのパラッツォとはまるで異なる。15世紀の共和政時代の有力者であったメディチ家も元は商人であったという点では、前述のメディチ邸もダヴァンツァーティ邸と同じ類型とみなせるものの、14世紀と15世紀の差は大きい。両者の共通点としては、1階が店舗や倉庫などのサービスルームとして使用され、2階が「高貴な階」を意味するピアノ・ノービレ(piano nobile)として接待や儀式などの場に使用されることである。ここでは2階に正面幅と同じ長さの大広間が設けられ、また外壁にも盾型紋章が設置されることで、その重要性が強調されていることがわかる。
この階には他にも壁画にちなんだ「鸚鵡の間」(Sala dei Pappagalli)や寝室、書斎などが設けられている[図5]。「鸚鵡の間」の内壁には暖炉が設置されており、こうした壁付の暖炉は中世以降に登場した。3階や4階にも壁画で飾り立てられた立派な寝室が設けられているが、興味深い点は4階における台所の存在である。その理由は、夏の暑い時期に調理で発生する熱気を居室などにこもらせないためであり、火災時の被害を最小限に抑えるためでもあった。2階の部屋にも暖炉は設置されているため、熱気は上の階へと昇っていくことになるが、確かに暖炉は冬季に使用されるのに対し、台所は1年中使用されるものである。しかし台所を上階に設けると、排煙という点では便利かもしれないが、水を上まで運ぶという点では非常に不便であった。住宅の使い方に関するこれらの特徴についてみると、暖炉以外は、古代ローマの港町オスティアにおける都市型中層住宅インスラ(四周を通りで囲まれることで、「島」に見立てられた大きな建物)とほとんど変わっていないようにも思われる。ただしこのことは、当時のフィレンツェで古代風の生活が営まれていたことを意味するものではない。一般にルネサンスは、中世に廃れてしまった古代のものをよみがえらせるという性格をもっている。建築の場合は浴場や劇場などが該当し、これらについては後述する予定である。なお、最上階はロッジャで解放されていて眺望が楽しめるが、これは16世紀に増築された部分である。
ヴェネツィアは中世から東方との交易で栄え、共和国としては7世紀末から1797年までの最長期間にわたって存続した。前項で扱った15世紀フィレンツェとは、共和国である点と、商業で栄えた点では共通している。けれども、当時の政治の中心であった庁舎を比べてみると、いずれもゴシック様式でありながら、形態はまるで異なっている。フィレンツェのパラッツォ・ヴェッキオは、粗面仕上げや狭間胸壁、鐘塔をそなえた城塞のような造りで、全体として垂直性が強調されている。それに対し、1340年に着工されたヴェネツィアの統領宮殿(パラッツォ・ドゥカーレ)は、3層構成の開放的な造りで、水平性が強調されている[図6]。この宮殿の中央には大きな中庭があるので、下の2層分がロッジャで開放されているのは、むろん採光や通風のためではない。以下では、その理由について見ていこう。
ヴェネツィア中世建築のもう1本の主流はビザンツ様式である。その代表例はサン・マルコ聖堂であり、コンスタンティノープルの聖使徒聖堂(アポストレイオン)を手本として1063年に着工された。これら2つの都市の関係は、サン・マルコ聖堂を飾り立てる4頭の馬のブロンズ像や、紫斑岩の四皇帝像[図7]といった第4回十字軍(1202─04年)の戦利品からもうかがえる。しかし、1453年にコンスタンティノープルが陥落し、オスマン帝国の支配下に置かれたことは、今まで深い関係をもっていたヴェネツィアのみならず、イタリアの諸国にも同じキリスト教国として大きな危機感を募らせた。翌1454年には五大国(フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、ローマ、ナポリ)が団結感を強めるべく、ローディで和平協定を結んだ。
ただしこれには伏線があり、フィレンツェのコジモ・デ・メディチ(1389─1464)が、外交において重要な役割を果たしている。彼は1433年にフィレンツェを追放されたのち、翌年に帰還してから市政の実権を握ったが、当時のフィレンツェはヴィスコンティ家のミラノとは対立していた。ところが、1450年にフランチェスコ・スフォルツァ(1401─66)がミラノ公になると、それまでの方針を転換して同盟を結んだ。その結果、一時的にヴェネツィアやナポリとは敵対することになったが、のちのローディの和へと結実したのである。イタリアにおけるこの平和な時代は、フランス王シャルル8世(在位1483─98)がナポリ王国の継承権を主張してイタリアに侵攻する1494年まで続いた。フィレンツェの初期ルネサンス美術が栄え、さらに他の都市へと伝わったのは、まさにこの15世紀後半にあたる。確かに平和であれば、文化の活動や交流は活性化しやすくなる。しかしそれ以上に、この時代にメディチ家の当主だったコジモ、ピエロ(1416─69)、ロレンツォ(1449─92)が、いずれも優れた学芸のパトロンだったことは強調しておきたい。
建築に関しては、土地の条件に左右される点が多いとはいえ、フィレンツェのパラッツォも他の都市への応用は十分に可能である。けれども、海の上にあるヴェネツィアだけは例外である。ルネサンスのパラッツォに見られる左右対称の大きな中庭は、運河や路地の入り組んだ狭小な敷地に設けることは難しい。したがって、採光や通風は運河や通りに面した側に限定されるため、壁面における開口部の占める割合も大きくなる。ただし、都市全体が海で囲まれたヴェネツィアでは、個々の住宅を要塞化すべく開口部を少なくする必要はあまりなかった。また、主要口は通りや広場に面して設けられるのが一般的であるが、ヴェネツィアでは大運河(カナル・グランデ)が目抜き通りに相当するため、そのような敷地の建物には船からアクセスできるようにしなければならない。さらに、地下室も海面下となるために設けることはできないので、しばしば広場に設けられているのは井戸ではなく貯水槽である。ヴェネツィアでは大運河に面した邸宅を構えることがステータス・シンボルとみなされた。大運河ではさまざまな祝祭が催されたので、そのときには自邸が絶好の観覧席となったのである。ヴェネツィアではフィレンツェよりもはるかに、2階のピアノ・ノービレが重要であった。
ヴェネツィア・ルネサンスのパラッツォとして、ここでは15世紀後半の例であるマウロ・コドゥッシ(1440頃─1504)設計のパラッツォ・ヴェンドラミン・カレルジ(1481年着工)を取り上げてみよう[図8]。このパラッツォは、南側が大運河に面した奥行きの長い敷地に建てられたため、中庭は設けられていない。ロレダン家の邸宅であったが、その後、何度も所有者が変わり、1739年から現在の名で呼ばれるようになった。3層構成の正面は二連窓(ビフォレ)が並ぶ開放的な造りで、2階の窓の下には欄干が設置されていることから、バルコニーとして使用される点に着目したい。また、オーダーの積み重ねにはルチェッライ邸[第1章の図17参照]の影響がうかがえる。正面の柱間(ベイ)は5つからなり、中央に3つ、その両側に一つずつ並ぶ。したがって、このファサードは水平方向のみならず、垂直方向にも三分割されていることが読みとれる。ここでは2階の中央に3ベイ分の大広間が設けられるが、この部屋では正面か背面のいずれかからしか採光はできない。それに対し、両隣の部屋では側面からの採光も可能である。こうした特徴は、ヴェネツィアのパラッツォの伝統として18世紀まで変わることはなかった。
■目次の紹介
1 古代の娯楽施設 ―ギリシアとローマ―
1.1 娯楽施設という建築類型
1.2 ギリシアの古代オリンピック施設
1.3 帝政ローマの娯楽施設
2 東西のローマとキリスト教 ―初期キリスト教とビザンツ―
2.1 古代の神殿とバシリカ
2.2 聖堂の平面形式とドーム
2.3 初期キリスト教とビザンツの都市ラヴェンナ
3 西ヨーロッパの修道院の展開 ―プレロマネスクからゴシックまで―
3.1 中世初期の修道院の誕生
3.2 中世盛期の修道院の繁栄
3.3 中世末期の都市型の修道院
4 城と戦争 ―中世の軍事施設―
4.1 古代の都市と城
4.2 中世の城の形式
4.3 中世の城での生
4.4 城から要塞へ
5 巡礼と遍歴 ―中世の宗教建築―
5.1 ローマの敵ゴート?
5.2 聖遺物と巡礼
5.3 ランス大聖堂
5.4 遍歴する工匠たち
6 都市と市民生活 ―ゴシックの広場と庁舎―
6.1 古代の中央広場(フォルム)の遺伝子
6.2 中世イタリアの政庁舎広場
6.3 ローマからアヴィニョンへ
7 古代風の生活 ―ルネサンスの住宅建築―
7.1 都市での日常生活
7.2 古代風の生活への憧れ
7.3 文献から読み解く古代風の生活
8 新しい信仰 ―ルネサンスの宗教建築―
8.1 ルターの宗教改革
8.2 新たなサン・ピエトロ大聖堂計画
8.3 カトリック改革
8.4 イエズス会の建築
9 新しい世界 ―ルネサンスの広がり―
9.1 レコンキスタと騎士修道会
9.2 マヌエル1世とマヌエル様式
9.3 マヌエル様式の建築