太宰治賞受賞作家・西村亨が読む『人間失格』
記事:筑摩書房
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初めて『人間失格』を読んでからちょうど三十年。三十年前のその日、私はたまたま開いた本の中に自分自身を見た。高校卒業後、就職した東京のレストランを半年で辞め、田舎に戻り、何のあてもないままに一人暮らしを始めたばかりの頃だった。社会に出て一瞬で落ちこぼれたという劣等感から、そのタイトルに惹かれて手にしたのが始まりだった。小説を読むのはそれが初めてだった。自分のような無学な人間に理解できるんだろうか。そんな不安は読みだしてすぐに霧消した。まるで心の中を隅々まで覗かれているような激しいむず痒さに、「わあっ!」と叫んでは本を閉じ、しばらく部屋の中をうろうろしてはまた開くというのを繰り返し、気付いたらほんの数時間で読み終えていた。こんなことを考えているのは自分だけじゃなかったんだ。生まれて初めて同じ人間に会えたという安堵に包まれながら、けれど己の醜い本性をバラされた恐怖におろおろした私は、自分も小説家にならなくてはならないと思った。世間の非難から身を守るためには、そうするより道は無いと思った。
今にして思うと考えすぎだと笑えもするが、当時の自分には切実な問題だった。生きるために嘘をついたり、強い者に媚びることなど、誰もがやっていることなのに、それが自分にはうしろめたかった。本心とは別のことをしていることに罪の意識を抱き、それなのに自分と同じような嘘をつきながらケロリとしている人々を見ると、自分の心に渦巻くこの卑しい感情は、他の人には無いイヤらしさで、自分はどうしようもなくイヤらしい人間なんだと思われてならなかった。母子家庭で家の中も暗く、いつも不安と恐怖を感じていたから、明るいものよりも暗いものの影響を受けやすかったのかもしれない。嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるとか、悪いことをすると地獄に落ちるという言葉に怯えながら、それでも生きるためには演技せざるを得ず、そのジレンマに苦しんでいた。だから「神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした」という主人公葉蔵の言葉に心から共感せずにはいられなかったし、「あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです」という言葉に救われた思いがした。
それから私は『人間失格』をお守り代わりにいつも持ち歩くようになり、辛いことがあるとその世界に逃げ込んだ。バイト先に馴染めず、孤独な休憩時間をやり過ごす時も、シェルターのような役割を担ってくれた。そうして何度も繰り返し読むうちに、初めは陰鬱な話とばかり思っていたのが、いつのまにかユーモアの部分にも目がいくようになり、暗いのに明るいという、不思議なおかしみを味わうようにもなった。さらに歳を重ねるにつれ、登場人物に対する印象も変わり、初めのうちは単に嫌な奴としか思ってなかった堀木にも、意外といいところがあることに気付いたり、ヒラメもクセはあるものの、そこまで悪人というわけではないと思えるようにもなった。若い頃は違和感でしかなかった、ラストのマダムの言葉、「神様みたいないい子でした」という葉蔵への思いも、素直に受け止めることができるようになった。それはつまり葉蔵の、そして自分自身の心の弱さ、ズルさを、多少なりとも許せるようになったということだった。完璧な人間なんてどこにもいない。誰もがこの不確かでわけの分からない世界を、自分なりに懸命に生きている。私はそれを、およそ八十年前、太宰治という人が、人生の最後に残してくれたこの小説によって、深く知ることができた。
流行り廃りは世の常だが、『人間失格』が未だ読み継がれているのは、そこに人間の普遍のテーマが描かれているからだ。永遠に変わらない人の思いが書かれているからだ。めまぐるしく移ろう時代に疲れ、孤独に苦しむ人は特に、一度立ち止まって開いてみてほしい。そこに羞恥と慰めを同時に覚えたなら、それはきっと生涯続く、優しい交友の始まりとなる。
『人間失格』77年を経ての文庫化の経緯はこちら (「なんで文庫にしたんですか?」第8回 太宰治『人間失格』「webちくま」)