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巨大化した大坂城で、両軍がにらみ合った大坂冬の陣 中村博司『大坂城全史』より

記事:筑摩書房

original image: beeboys / stock.adobe.com
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慶長19年、東山方広寺の大仏開眼供養が8月3日に行なわれる運びとなった。しかしその直前の7月21日に突如駿府から、同時に新鋳された大鐘の銘文に「関東不吉の文言」があるとのクレームがついた。幕府の儒官林羅山が、銘文中の「国家安康」が家康の名を二分し、「君臣豊楽」が豊臣を君として楽しむ、と読み解いたところ、これを聞いた大御所家康が激怒したというのである。

家康の機嫌を損ねては豊臣家の存立も危ういと見た秀頼は、開眼供養を延期し、釈明のため側近の片桐東市正且元を派遣する。駿府滞在1ヶ月に及んだ且元は、大坂城に帰るや家康の意向を次のように披露した。家康の意向は(1)秀頼が江戸に参勤するか、(2)淀殿が人質として江戸に下るか、(3)豊臣氏が大坂を明け渡して所替えに応じるか、であると。これを聞いた重臣らは激怒し、且元が徳川に内通したのではと疑ったという。身の危険を感じた且元は城内二ノ丸にあった自邸(現城内二ノ丸梅林付近。江戸時代には市正曲輪と呼ばれていた)に引き籠もり、秀頼や淀殿からの再三の出仕要請にも応じず、10月1日、弟の貞隆とともに茨木城へ退去した。

その頃家康は少し体調がすぐれなかったらしいが、且元と大坂城本丸衆との確執の報に接するや「御本望と仰せ出だされ、御太刀をがばと御ぬき成され、床へ御飛びあがりなされ」(『見聞書』)て、即座に幕下の諸大名に出陣を命じたという。こうした大坂城内での紛糾こそ家康が待望していたものであったのだろう。程なく家康も秀忠も相次いで駿府と江戸を出発して京都を目指した。

一方の大坂方は、且元追放直後から惣構の城塞化に取り組み、大川で分断される弱点のある天満城下町を惣構から除外し、上町城下町の四周に塀や櫓をめぐらす工作を開始した。慶長19年10月11日付中井正清宛中井利次書状には次のようにある。

将又、大坂の様子いよいよ惣まわりの川端、塀仕り、天王寺口にも堀を掘り、井楼なとも仕り、事のほか用意つかまつり候躰のよし候(『大工頭中井家文書』)

大坂方がそれまでなかった塀や櫓を惣構の堀端に付設して要害化を図る様子がうかがえるが、この大坂籠城の様子を描いたのが「大坂冬の陣両軍配陣図」(江戸東京博物館蔵)である。これは、冬の陣の際、徳川方陣中で販売していたと伝わる瓦版で、最終末期の豊臣大坂城の全貌を今に伝える貴重なもの。「本丸」のなかに「さくらのもん」(桜の門)や「せんてうしき」(千畳敷)御殿が描かれている(中村「最古の真田丸図補論」)。

こうして「惣構」としての上町城下町を城内に取り込む新たな「三ノ丸」が出現し、大坂城の城域は一気に約2.2キロ四方、4.8平方キロにまで拡大したのである。

11月15日、家康は二条城を出ると大和路から大坂に向かい、一方の秀忠は伏見城から八幡を通り、生駒山西麓を南北に走る河内路(東高野街道)を進んで大坂を目指した。その頃には、家康の下知に応じた諸将も各地から大坂城周辺に到着し、城を取り巻くように布陣していた。

一方の豊臣方はといえば、秀頼の参陣要請に秀吉恩顧の大名たちは一人も応じなかった。代わりに集まった主な連中は、元土佐国主の長宗我部盛親、元豊前小倉城主の毛利勝永らを筆頭に、紀州九度山に逼塞していた真田信繁、宇喜多家家老の明石全登らのいわゆる関ケ原浪人たち、当主との不仲の故に主家を去った後藤基次(元黒田家)、塙直之(元加藤嘉明家)らであった。中でも異彩を放ったのは南部家の重臣であったが当主利直と仲が悪く出奔した北信景で、ド派手な行装で入城し、「南部の光武者」と持てはやされたという(『祐清私記』)。

冬の陣の戦いは11月19日に東軍の蜂須賀・浅野らの兵が西軍の木津川口砦を急襲し奪取したことから始まった。翌月19日の和睦に至るまでの1カ月に及ぶ合戦で、惣構堀を頼んで大坂城に籠る西軍と、その四周を雲霞のように取り巻く東軍という構図が崩れることはなく、おおむね両軍対峙のまま経過した。11月28日の「鴫野今福の戦い」、12月4日の「真田出丸の戦い」、十二月十七日の「本町橋の夜討ち」などが目立った戦闘であったに過ぎない。

家康は、厳冬における長期の野陣が寄せ手にとって不利なことを充分承知しており、早くから和平を模索した。一方の大坂方も寄せ手の執拗な砲撃に悩まされる有様で、次第に双方に和睦の機運が漂っていった。両者は協議を重ね、年も押し詰まった12月22日に誓書を交換して和解し、徳川方は兵を引き上げることとなった。ただし和睦の条件に、本丸を残し、それを取り巻く曲輪の堀や壁などは破却するというものがあった。『大坂冬陣記』によれば、それは次のようなものであった。

大坂本城のみ、二丸・三丸皆壊平すべし、然らば母儀質たるに及ばず(中略)、大御所より本座・新座異儀有るべからずの誓紙下さる(『大坂冬陣記』)

これは二ノ丸、三ノ丸の堀を埋め、堀際にあった櫓や塀などを破却することを意味した。この条件を飲めば、母の淀殿を人質として江戸に送らなくてもよいし、譜代や新参の大坂籠城衆もお構いなし、というのである。

こうして、早くも誓詞交換の翌23日には、徳川方の手で三ノ丸の堀を埋める作業が始められたが、一方の二ノ丸の破却は豊臣方の手で行なう、との付帯条件がついていた(『大坂冬陣記』)。ところが、数日で三ノ丸の破却を終えた徳川方は、豊臣方からの再三の抗議を無視して二ノ丸の破却にも取り掛かり、翌年1月19日までに二ノ丸・三ノ丸破却の作業を完了してしまった。こうして大坂城は内堀に囲まれた本丸ばかりとなったのだが、その姿について南禅寺の金地院崇伝は次のような感慨を残している。

大坂之儀、堀埋まり本丸計りにて浅間しくなり、見苦しき体にて御座候(『本光国師日記』)

(『大坂城全史』より抜粋)

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