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ワインを飲めば世界史がわかる!? 「ヨーロッパの伝統」の裏側を読み解く 山下範久『教養としてのワインの世界史』より

記事:筑摩書房

original image: Ruslan Gilmanshin / stock.adobe.com
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ワインの旧世界

「旧い」とか「新しい」とかいう言葉は、いいかえれば起源の遠さないしは近さのことです。「旧世界」のワインは起源の古さを伝統として誇り、「新世界」のワインは起源の新しさを活力として誇ります。ですが、話がそれだけならば、もっとも典型的な旧世界ワインの産地はたとえばジョージアであり、もっとも典型的な新世界ワイン産地はたとえばインドや中国であるということになるでしょう。事実、ジョージア・ワインはしばしば「人類最古のワイン産地」を誇り、インドや中国の新進ワイナリーはしばしば、ついに再びやってきた彼らの時代の象徴の一つに数えられます。

ところが実際的にいって、旧世界の中心はフランスやイタリアであり、ジョージアはせいぜいその周縁に入るか入らないかといった程度です。また新世界の中心はカリフォルニアやオーストラリア、チリといった地域であり、中国やインドがそのなかに数えられることはいまのところまずありません。

あえて大上段に振りかぶっていいますが、およそ起源なるものは必ずあとから見出されるものであり、そしてより重要なことに、常に特定の視点から見出されるものです。いいかえれば、起源とは、それがいつ、そして誰の視点から見出されたものなのかによって複数の可能性があるものだということです。が、それにもかかわらずしばしば特定の時点に特定の視点から見出された起源が特権化されます。そのような動機なしには、そもそも起源について語るということ自体がそうそう起こりえないからです。そしてワインの世界では、ヨーロッパ人、それも近代化を成し遂げたヨーロッパ人の視点からの語りが、そのような特権的な位置を占めているわけです。

身も蓋もない話ですが、結局のところワインの旧世界とはヨーロッパ(特に西欧)のことであり、新世界とはヨーロッパ人が定住植民してワインがつくられるようになった地域のことです。それ以上になにか客観的な──ワインづくりがいつ以前・以降に始まったとか、平均的なアルコール度数や新樽使用比率だとか、ラベル表示のシステムの相違だとか──指標を立てようとしても、せいぜい例外や注記だらけのアド・ホックなものにしかなりません。この意味では、ワインにおける「新世界」・「旧世界」という語法がそれ自体きわめてヨーロッパ中心主義的であるということはやはり間違いありません。それは旧世界をヨーロッパと定義することで―あるいはその定義に暗黙の同意を強いることで―はじめて成り立つものでしかないのです。さらにいえば、それは、昔からヨーロッパ人がワインをつくっていた地域と、近世になってヨーロッパ人が移住していった先でワインをつくりだした地域だけで世界を二分しつくしてしまう語法でもあります。逆にいえば、その語法は、そもそもヨーロッパ人が介在しないワインづくりなるものを視野から消してしまう作用さえもつのです。

もちろん、ではヨーロッパにおけるワインの伝統というのは、特定の立場から捏造された単なる物語にすぎないのかといえば、それもまた極論にすぎるでしょう。新世界と旧世界といった(ヨーロッパ中心主義的な)言葉づかい自体がその妥当性を失いつつある今日、これまで広く思い込まれてきたほど、ヨーロッパの伝統なるものが歴史的および地理的に一貫したものではないということ──つまりヨーロッパのワインが時間を超えて不変であったわけでも、またヨーロッパのワインが、なにか単一の排他的な「ヨーロッパ的性質」を共有しているというわけでもないということ──は、はっきりと意識しておいたほうがよさそうです。

ワインの伝播

すこし結論を急ぎすぎましたね。ここで話を巻き戻して、一般的な―そして多かれ少なかれヨーロッパ中心主義的な―ワインの世界史観を簡単に(しかし批判的に)見ておきましょう。

図 ワインの伝播(Johnson &Robinson, 2007 より作成)
図 ワインの伝播(Johnson &Robinson, 2007 より作成)

図は、権威あるワイン・ジャーナリスト、ヒュー・ジョンソンとジャンシス・ロビンソンの大著『ザ・ワールド・アトラス・オブ・ワイン』から引いてきた古代におけるワインの伝播を示した地図です。

現在のジョージアのあたり、コーカサス地方から始まるのはすでに述べた通説どおり。そこから南下してメソポタミア地方や地中海東岸へ。そこからエジプトへ向かうルートとギリシアに向かうルートに分かれますが、二つの流れはローマで合流し、そこからさらにローマ帝国の西方への拡大に沿って、シチリアから北アフリカを経てイベリア半島に至るルート、地中海北岸づたいに進んで現在のフランス南部へ入るルートで、ワイン生産は拡大していきます。古代におけるワイン伝播の前線は、すでに現在のイギリスやドイツにあたる地域にまで及びました。このあたりまでが、いわばワインの古代史です。一見シンプルな地図ですが、この地図だけからでもいくつかのことが指摘できます。

最初に指摘しなければならないのは、この地図は実質的にローマ帝国をゴールにしているということです。もちろんイタリアをはじめ、フランスやスペイン、ドイツといった今日の主要なワイン生産国にワイン生産が伝わる上でローマ帝国が果たした役割はたしかにおおきいものです(もっともイタリアにワインづくりをもたらしたのは、イタリア半島に植民してきたギリシア人でした。彼らは半島全土でブドウ栽培が可能なこの地を「エノトリア・テルス〈ワインの大地〉」とよびました)。

特にフランス──なんだかんだいっても依然としてワインの生産国ブランドとしては最強の地位を保っているといっていいでしょう──の視点から見れば、同国へのワインの伝播は文字どおりローマ帝国の征服とともにやってきたものです。たとえローマ帝国の時代にそもそもフランスという国が存在しないとしても、「フランス・ワインの歴史」を書こうとすれば、シーザーの『ガリア戦記』から説き起こさざるをえません。

しかし、それはあくまでフランス(あるいはドイツやスペインといった他の西欧諸国)の視点からの話です。すでに触れたとおり、ワインの発祥をコーカサスに認めるとして、その伝播の方向は地中海を目指す西向きだけではありませんでした。すでにこの講義では、ペルシアからインドや中国の西方への伝播の方向もあったことを指摘してきました。前回は『ラーマーヤナ』に触れましたが、前漢の時代、紀元前128年のこと、匈奴を挟撃すべく大月氏しへと送られた使節である張騫が、サマルカンドの東のフェルガナからブドウを持ち帰ったという記録もあります。それにもかかわらずコーカサスからの伝播のルートが西向きにしか描かれていないのは、要するにローマ帝国にどう伝わったかということにしか関心がないということでしょう。

さらにいえば、この地図は単にローマ帝国を古代のワインのゴールとみなしているだけではなく、それをヨーロッパ・ワインのスタートともみなしているふうでもあります。しかし一般に、古代のギリシア・ローマから一直線にヨーロッパに線を引く歴史観は、今日ではあまり評判がよくありません。一つにはヨーロッパの起源としての古代ギリシア・ローマは、そもそも近代において「発見」(というかほとんど発明)されたものだからです。

近代は、その直前の時代である中世を、迷信に支配され、人間性を抑圧する「暗黒の時代」として否定しました。というか、そのように否定することで社会を変化させようとする過程が近代という時代です。新しい変化というものは本質的に、その変化がなにをもたらすかをあらかじめは知りません。ですから変化は、それが根本的であればあるほど、当事者にとっては、さしあたり直前の過去を否定することでしか表現できません。しかし否定だけでは未来へのヴィジョンは見えません。そこでしばしば起こるのは、その直前の過去のさらに向こうの過去を理想化し、そこに変化の目的を投影することです。実際、フランス革命の闘士たちは、自分たちをローマ帝国の共和派のイメージに重ね合わせていましたし、考えてみれば日本の明治維新だって、直前までの過去の武家政治を否定して、その向こう側の過去としての天皇親政時代を理想化することで「王政復古」として実現されたものです。

すこし話がずれましたが、要するに、古代のギリシアやローマに、ヨーロッパ的達成の原型を見出し、中世にいったん抑圧されたその達成が、近代ヨーロッパによって、より完全なかたちで実現するというストーリーは、近代ヨーロッパの自己正当化の物語でしかないということです。

ヨーロッパの成立

だいたい古代ギリシア・ローマに、そもそもいまでいうヨーロッパという単位なんて全然意味がありません。世界としてのまとまりでいうなら、むしろギリシアやローマは、東岸のシリアや南岸のエジプトやチュニジアなどとともに地中海世界の一部です。当然といえば当然ですが、古代ギリシアのワインは、モノ自体としてみれば、たとえば現在のフランス・ワインはもちろん、現在のギリシア・ワインと比べてさえ、むしろ古代のエジプトやフェニキアのワインにはるかに近いものです。

地中海世界は、夏に乾燥し、冬に風雨が強まるという気候的条件など、ブドウ栽培に適した風土を共有しています。まさに地中海性気候です。もちろん、では地中海世界がのっぺりとした一つの均質な世界であったかといえばそれも違うでしょう。ここでアンリ・ピレンヌやフェルナン・ブローデルといった歴史家のすでに古典となった議論に深入りする余裕はありませんが、地中海は、むしろ複数の文明が交錯する一つの交通空間ととらえるほうがふさわしいでしょう。重要なのは、コーカサスに発したワインづくりがいわば約束の地であるヨーロッパへと向かう単線的な経路に、古代のワイン地図を還元してしまわないことです。ワインは、多方向的に伝播し、伝播した先で多元的な要素と出会います。それを通じて、ワインというモノが、ワインのつくり方が、売られ方が、飲まれ方が、意味づけられ方が多系的に進化していくわけです。そして、その結果として、ワインの歴史地図は常に描きなおされつづけるのです。

イギリスを例にとってみましょう。近代ヨーロッパを基準とするワインの歴史のなかで、この国の存在はほとんどワインの消費国・輸入国としてしか扱われてきませんでした。しかし、近年(1980年代以降)、温暖化の影響もあって、イングランドの南部を中心に優れたワイナリーが続々と国際市場に登場するようになってきました。特にスパークリング・ワインに素晴らしいものが多いです。日本でもナイティンバーなど安定したインポーターがつくものがでてきました。

それはさておき、そのような新しい現実から振り返ってワイン生産国としてのイギリスの歴史を見れば、ブリテン島の南半はたしかにローマ帝国の最大版図に入っており、少なくともその時期にブドウ栽培が試みられたことは、歴史学的推定としても考古学的証拠からもたしかなようです。しかもそれは歴史の闇に消えていく挿話的事実ではありません。すこし時代は下りますが、一一世紀の土地台帳ドゥームズデイ・ブックには46カ所のワイナリーが記録されているそうです。その後もイギリスのワイン生産は成長を続け、ヘンリー八世の時代(一六世紀の前半です)には、大規模なものだけでも139ものブドウ園(うち11が王家の所有、67が諸貴族の所有、52が教会の所有)がありました。

こういった歴史は、つい最近まで、ほとんど語られることのない話でした。私がこのことを知ったのも、2008年に刊行されたデヴィッド・ハーヴェイの『グレープ・ブリテン』を読んではじめてのことです。同書は、現在のイギリス・ワインを主題として書かれた本ですが(イギリスでワイナリー巡りを計画しておられるハイブラウなワイン愛好家の読者の方がもしいらっしゃれば、ガイドブックとして役に立つでしょう)、少なくとも近世の入り口―示唆に富むことに「新世界」にワインが広がっていく直前―まで、イギリスにワインづくりの伝統が脈々と流れていたことにも光をあてています。いわば歴史に伏在していた多系的なワインの進化の道筋が、新しい現実から逆照射されることでまた一つ浮かび上がったわけです。

ヨーロッパの起源を古代のギリシア・ローマにダイレクトに結び付けるわけにはいかないとなると、次に出てくる発想は中世ヨーロッパの成立です。しばしば象徴として挙げられるのは、800年のカール大帝の戴冠です。この年、ローマ教皇レオ三世はフランク王国のカールにローマ皇帝の冠を授与し、西ローマ帝国を復活させました。これは単なる古代帝国の復活ではなく、古典文化、ローマ・カトリック、ゲルマン文化の三つの要素からなる西ヨーロッパ世界の誕生である―と、私は高校の世界史で習いました。

実際、このカール大帝──フランス語ではシャルルマーニュ──は、ワインの世界にも多くの蘊蓄の種を残しています。たとえば緯度の高いドイツで、ワイン用のブドウ栽培の好適地としてライン川の河岸の急斜面をひらくことを命じた(「ラインガウの発見」)のは彼だといわれています。またカール大帝はもともと赤ワインを好んでいたものの、彼の豊かな白髯が赤く汚れるのを見苦しく思った王妃の進言で白ワインしか飲まなくなったという逸話があり、彼がソーリューの修道院に与えたコルトンの丘陵(現在のフランスのブルゴーニュ地方におけるアロース・コルトン、ペルナン・ヴェルジュレス、ラドワ・セリニ村にまたがる)付近でつくられる特級格付けワインのうち、「コルトン・シャルルマーニュ」(ないしは単に「シャルルマーニュ」)というラベル表記が許されるのは白ワインだけです。

蘊蓄的なエピソードはともかくカール大帝が現在のフランスおよびドイツにあたる地域のワインづくりの振興に力を尽くしたことは間違いないようです。西ローマ帝国の滅亡から3世紀半ほどのあいだ、ゲルマン民族の大移動にともなう混乱で、ブドウ園は各地で荒廃が進んでいたからです。そこには有名なピレンヌ・テーゼを持ち出すまでもなく、古代と中世のあいだの断絶が刻印されています。古代にローマの海であった地中海が、中世にイスラムの海になったというのはいいすぎだとしても、中世を通じて、地中海世界とアルプス以北のヨーロッパ世界とのあいだに、一つの世界としての基層の共有が稀薄だったことはたしかです。

中世において地中海世界は、その主こそローマからイスラムに代われど、やはりヒトやモノ、情報が行き交う交通空間であったことに変わりはありません。特に12世紀以降は、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサ、フィレンツェといったイタリアの都市国家がたがいに争いながら遠隔地商業に乗り出していきました。地中海を行き交う航海者たちにとってワインは必需の物資の一つです。暑く乾いた夏をもたらす地中海の気候は、ブドウの糖度を自然に高めますが、この頃には、収穫を遅らせて糖度を高め、収穫したブドウを陰干しにしてさらに糖度を高め、結果として17度近いアルコール度数を含むワインもつくられていたようです。もちろんこのような高糖度の果汁は大量には生産できませんから、当然高級品になります。しかし、このレベルにまでアルコール度数の高いワインは、かなり長い船旅でも酒質を保ち、むしろ熟成によって味が良くなることさえありました。つまり遠隔地商業向きにワインが進化したわけです。

やがて商業の中心が地中海から大西洋に移ってからも、長い航海に耐える頑丈な酒質をもった強いワインという進化の方向はしばらく引き継がれます。まさに地中海遠隔地商業と並行してイスラムから伝わった蒸留の技術によってブランデーがつくられるようになると、ブランデーを添加することによって強化されたワイン──シェリー、ポート、マデイラなど──が登場します。単に地中海の風土がというよりも、交通と商業の拡大そのものが、ワインというモノの進化に一定の方向づけ(強いワイン)を与えたことには留意しておきましょう。

修道院のワインづくり

他方、アルプス以北のヨーロッパでは、アルコール度数の強さとは異なる方向で、しかしやはり質の向上を伴う進化が起こりました。その主舞台は修道院です。修道院は経済的に自立していることが原則です。ミサに使うワインは当然自分たちでつくりますが、巡礼者への宿の提供、病人の収容や、高貴な旅行者の饗応といった機能も修道院にはあり、その際に(あるいは薬として、あるいは晩餐の席に)ふるまうワインも用意せねばなりません。またワインは端的に修道院にとって貴重な現金収入源でもあり、修道士たちがワインを自らつくる動機は十分にありました。

ただ修道士たちはやみくもに鍬をふるっていたわけではありません。彼らがワインの進化に果たした貢献は、その徹底した栽培・醸造の記録と分析にあります。それはだれにでもできたことではありません。多くの人々が読み書きのできなかったこの時代、なんといっても彼らは当時の知識階級なのですから。修道院は、いわば中世ワイン産業の地域産学協働センターのようなものです。彼らは品種選抜、剪定、挿し木といった技術革新をするとともに、畑ごとのブドウの特徴について実に詳細な記録をとり、高級ワインを生産するための特別区画(クリュ)の選定をおこないました。

修道院が特におおきな役割を果たしたのは断トツでブルゴーニュです。ブルゴーニュのボーヌの街のすぐ北にあるシトーに11世紀の末に結成されたシトー会の修道士たちは厳格な戒律に服し、ほとんど革命家の熱情をもって祈りと労働にその身を捧げました。そしてその労働の多くはブドウ畑での労働に注がれました。彼らは熱心にクリュの選別をおこない、畑を一定の個性を備えた均質な区画ごとに高度に細分化させていきました。果たして今日ブルゴーニュは、世界でいちばん──断トツにいちばん──畑ごとのワインの味わいの差異が細分化されたワイン産地です。いわゆるテロワールの理念の聖地です。

ヨーロッパ・ワイン(旧世界ワイン)、特にフランス・ワインの伝統的本質を、このテロワールの考え方に求める人は結構多いです。たとえば2004年にカンヌ映画祭に出品され、話題となったワインとグローバリゼーションのドキュメンタリー(というにはやや演出過剰でしたが)映画『モンドヴィーノ』も、基本的には、そういう路線で話がつくられていました。そういう人たちにとっては、シトー派修道会は、まさにヨーロッパ・ワインの起源ということになるかもしれません。しかし、問題はそのテロワールなる概念は、それほどの本質視に足るのかということです。が、今回はすでにすこしお話が長くなりすぎました。さしあたりここでは中世の「旧世界」におけるワインの進化が、少なくとも地中海世界とアルプスの北側とで異なる文脈のなかに置かれていたということを確認しておきましょう。

ワインにおける旧世界と新世界という語法の背後にあるヨーロッパ的なるものについて、その古代的起源を解体し、中世的起源を相対化しようとしてきました。背後にある私の問題意識は、ワインにおけるヨーロッパは近代において構築されたものだということです。少なくとも一五世紀に至るまで、ワインにとっての一つのヨーロッパ世界なんて存在しないのです。そこで次の問題、近代に起こったヨーロッパの構築―それはとりもなおさず新世界と旧世界という語法(あるいは世界観)の構築でもあります―はどのように起こったのか。それをワインの視点で考えることが『教養としてのワインの世界史』のテーマです。

(『教養としてのワインの世界史』より抜粋)

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