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ただ坐りつづけるだけの行為がアジアでつよい象徴性をもった理由 矢田部英正『坐の文明論』

記事:晶文社

身体の姿勢が示す文化的な象徴性をしらべていくと、立位姿勢と地面に坐る平坐位姿勢とでは、それぞれの姿勢が内包する情報に、まったくことなる生き方が暗示されていることがわかる。身体的な経験としては、直立姿勢も、坐姿勢も、どちらもあらゆる人類が共通しておこなう行為であるにちがいない。しかし、それぞれの姿勢に対して、「主人の姿勢」「奴隷の姿勢」「戦士の姿勢」あるいは「聖者の姿勢」というような一定の価値を与え、それらを彫刻し、絵画に描き、あるいは文学的な語りによって、人間の生き方を一定の方向へと駆り立てるようなことが起こる。

わたしたちが生活しているこの社会にも、物質文化のひとつひとつに、それらを扱い、身につける人間の身体像が想定されていて、多くの場合、わたしたち生活者はそのことに無自覚なまま、近代文明の安楽さを享受している。近代化とは西洋化と同義語であるから、近代的な生活の背後には西洋人の身体技法が潜在していて、その無形文化が形づくる身体感覚は、わたしたちの思考と行動を支配することになる。

たとえば、日本人が日常的に身につけている「洋服」とは「西洋服飾」の意味であり、日本の伝統服とはまったくことなる身体感覚をつくる。西洋服飾の裁断形式はフォーマルなものになるほど明確な身体像を持っており、被服成形の基準となる「服飾ボディ」に布をのせ、それらを立体的に縫い合わせて形づくられる。頭部と手足のない胴体だけの「ボディ」は、またの名を「トルソ」とも呼ばれ、その原型はギリシア彫刻の身体像に由来する。

古代ローマ時代の昔から、ヨーロッパ民族はギリシアをモデルにして自分たちの文化を構築してきた歴史があり、躍動的なギリシアの立像に人間の理想を想い描くような文化的気風がある。それは衣服にかぎらず、建築物や室内空間の寸法基準、挨拶や社交上の作法など、生活の全体におよんでいる。

ギリシア彫刻のモデルとなった人間像とは、周知の通り古代オリンピアの競技会で戦う若者たちであり、とくに近世ルネサンス以降のヨーロッパでは、古代ギリシアの彫刻群を仰ぎ見るようにして美の理想が追求された。古代ギリシアの都市国家において、若い戦士の肉体がかくも讃美されたのは、当時の地中海の沿岸地域では、日常的に戦争がおこなわれていて、若い戦士は有事になると身を賭して市民を守る英雄でもあったからである。自分が生きるために犠牲になった命を、神として祀り弔う儀礼は、宗教を生み出す原点にある感覚でもあり、とくに自ら進んで戦い、命を差し出す美しい若者たちは、ギリシア市民にとってはとてつもなく特別な存在として、崇拝の対象となっていた。

ヨーロッパの美術史においても、ギリシア彫刻はもっとも高い価値が与えられていて、たとえばルーヴル美術館のエントランスにもっとも近いフロアが、ギリシア彫刻の展示室となっていることからも、西洋美術史全体の位置付けがよく理解できる。フランスの文化大臣でもあったアンドレ・マルローが「わたしたちはギリシアの息子である」などと宣言したのは、民族全体としての文化の方向性を、地中海の最果てに興った古代文明に接続させるのだ、という意味にほかならない。

若い戦士がモデルとなった立像の身体が象徴するものは、運動能力の拡大と同時に、闘争をくり返してきた人類の記憶が刻まれてもいるわけだが、それは自分たちの生きることが、他の命を奪うこととイコールで結ばれながら、ギリシア・ヨーロッパの都市文明が築かれてきたことをあらわしてもいる。

一方、「坐る」という動作は、直接的には休息の姿勢、食事の姿勢、作業姿勢、学習の姿勢、民俗によっては挨拶の姿勢など、多様な意味合いを含んでいるが、そうした生産的な価値をいっさいもたない行為として、瞑想の坐法というものがある。つまり、なんの目的ももたず、なんの役にも立たず、ただ坐りつづけるだけの行為が、アジアの国々ではつよい象徴性をもって伝承されてきた。

開悟した仏陀の坐像をはじめとして、ヒンドゥー・仏教の聖者は、その多くが坐った姿で描かれている。多くの場合、人は坐りながら、食事や対話、読み書き、軽作業など、何らかの活動をおこなっている。しかし、瞑想の坐においては、外界に向かったはたらきかけが一切なく、言葉を発することもなく、ひたすら身体の内側へと意識が向けられる。瞑想時の身体は、外見的には静止しているが、身体の内側に対しては、呼吸や血流の動きを増大させながら、視覚的にはとらえることのできない気血の流れをダイナミックに巡らせることを前提としている。

「アサナ」といわれるヨーガの技法は、過去の習慣によって蓄積された筋肉の緊張を脱落させ、内臓に停留した老廃物を浄化し、坐の瞑想に至って精緻な内観の段階に入る。そして瞑想の初期段階では、五感のはたらきを制御する「プラティヤハラ」という技術にはじまり、外側の環境などに影響されない心の状態をつくるという。

また瞑想によって制御される体内の動きは、外界の気象や天体の運行とも呼応して動いているから、体の内側を感覚的にとらえていくことは、同時に外界の動きを居ながらにして感覚することにもつながっていくのである。自己の身体に巡り流れるものが、天体の流れとひとつに動きはじめるのを、からだの実感としてたしかめることができるようになると、あたかも自己と世界とがひとつに結ばれていることを、美的な覚醒とともに悟るのだという。

サンスクリット語でいう「サマディ(三昧)」という言葉は、人間が宇宙とひとつになることをあらわしている。つまり身体を媒(なかだち)として、人と世界とがひとつに結ばれ、外界の自然に対しても、親和的な生き方を見極めることが、坐の瞑想の行き着くひとつの到達であるといえる。もしかしたらそれは、修行の通過点にすぎないのかも知れないが、なんの生産的な価値を生まない坐の瞑想法が、古代からアジアの諸地域で重んじられ、聖者の存在を示す象徴性をもちつづけてきたことは、直立姿勢を礼讃してきた欧米文化と対比させると、その反対の極にある文明の身体技法であるといえる。

日本をはじめ、インドから東に広がるヒンドゥー・仏教の地域では、太古の昔から床坐の生活が営まれていて、床に坐る作法についても豊かなバリエーションをもっている。その背景には、只管(ひたすら)坐って瞑想を組むことを大事にしてきた宗教的な伝統があり、その修行法から悟りへといたった僧侶たちの身体技法が、床坐を中心とした生活の作法として体系化され、庶民一般にまで普及していくこととなる。

(『坐の文明論』より抜粋)

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