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昭和天皇に「戦争責任のこと」を言ったのは外国メディアで、日本ではない 鈴木健二『戦争と新聞』

記事:筑摩書房

original image: nic_ol / stock.adobe.com
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 戦後の報道で、昭和天皇の病状報道ほど内外落差の生じたものはないだろう。このことから日本の報道のあり方に、厳しい視線が投げかけられた。言論の自由を唱えるけれど、果たして本物なのか、と。「天皇重体」が発表された1988年9月19日以来、来る日も来る日も病状報道が新聞の一面トップ。そのことが結果的に国民の自粛ムードを煽り、運動会の花火打ち上げや、恒例の秋祭りを中止させた。「本日のお見舞い記帳○○人」の記事が有名人や庶民を記帳に駆り立てなかったとは言えまい。

 報道する側からすれば、天皇のご容体が国民の最大関心事であるとの確信があったし、事実報道に徹しているとの自負もあった。しかし「右へならえ」が日本人の特徴であることを熟知するなら、その結果にも責任を持たねばならないだろう。

 地方議会は競って「ご快癒祈念」を決議。それに異議を唱えたり、天皇の戦争責任に言及した共産党議員は議会で糾弾され、発言を封じられた。保守系の本島等長崎市長は「天皇の戦争責任はある」と発言しただけで連日の脅迫にさらされ、ついに銃弾に倒れた。朝日、毎日両紙は社説をもって発言を擁護したけれど、発言内容への深入りを避けた。本島市長は「敗戦直後の新聞は、もっと天皇の戦争責任を自由に発言できていたのではないかと思いますが、その点が論じられなかったのは残念」と述べている。

 要するに言論の自由は守るが、新聞自らは天皇問題で積極的に発言しようとはしなかった。それが本島市長の無念であり、また外国報道機関の突くところとなった。

 天皇の戦争責任を初めに厳しく取り上げたのは、9月21日の英大衆紙だった。ザ・サン紙は「日本軍部が1941年に戦争を始めたとき、国民から神とあがめられていた天皇は戦争をやめさせることができたのに、何もしなかった。連合国の戦争捕虜に対し拷問が行われても何もしなかった」と非難。デイリー・スター紙も「天皇の名において無数の犠牲者が残酷な仕打ちを受けた」と批判した。

 外務省が英政府に不快感を表明、当時の渡辺美智雄自民党政調会長が「それらの新聞特派員に国外退去を求めてはどうか」と発言したことが在京外国特派員を刺激した。以降、日本の天皇報道も絡めた「東京発」が次々と打電されるのである。「日本人の心に潜んでいる国粋主義が再び首をもたげている」(東亜日報1988年9月23日、韓国)。「天皇の危篤は率直な反省のきっかけとはならず、むしろ事態はその逆に進んでいる」(シュピーゲル同10月3日、ドイツ)。「天皇の戦争責任に関する問題の蒸し返しは政府高官を少々神経質にさせている」(ニューヨーク・タイムズ同30日、米国)。

 なるほど日本の新聞は自粛の行きすぎを戒めてはいた。「集団主義が、こと皇室にからむ問題では、ひときわ敏感に現れる」(朝日同9月29日)、「集団主義が今でも、いたるところに見られる」(毎日同10月9日)、「大勢順応の国民性が、ここにも顔をのぞかせたように思われる」(読売同18日)と社説で指摘した。しかし表現の奇妙な一致に見られるように、マスコミ自身が集団主義に埋没していた。

 天皇が亡くなられた1989年1月7日の各紙夕刊が「天皇陛下、崩御」で見出しを統一していたことはよく指摘されるが、それから数日間の集中豪雨的な天皇報道もなべて画一的だった。社説などに論調の違いは見られるものの、読む人によっては気づかない程度だった。

 天皇の戦争責任について表現に苦慮しながら社説で言及したのは朝日新聞だった。「在位中最大の痛恨事は……日本が逆の方向に押し流されて行くのを止めえなかった点であろう」。「戦争回避のため天皇の影響力がもっと行使されていたならば……との思いが、昭和史を回顧するだれの胸にも去来するのである」。

 毎日新聞はもっと注意深く書いた。「陛下の戦争責任を問題にして『天皇制打倒』『天皇退位』を求める主張も少なくなかった」。「天皇であるがゆえに避けられない道義上の責任、そこに、陛下の人知れぬ苦労がおありであったのであろう」。これに対して読売新聞は素通りして「その一方で、戦争責任をめぐる論議もあった」と触れただけだった。

 これに比べると海外の社説や論説は単刀直入だった。「いかに否認しようとも、すべての宣戦布告が彼の名によってなされたという事実までも否認することはできない。アジア諸国に対する日本の支配が『天皇』の名によってほしいままにされたということも、また厳然たる事実だ」(東亜日報1989年1月9日、韓国)。「晩年の天皇が人の善行を助けたからといって彼の犯した許すべからざる過ちを巧みにごまかすことはできない」(経済日報同11日、香港)。「勇気さえあれば流血を食い止め、歴史や第二次世界大戦の流れを変えることができたかもしれないときに、彼はその力を行使しなかった」(キャンベラ・タイムズ同10日、オーストラリア)。「天皇の個人的責任をめぐる議論がこれまでなされずにきたことが、過去と真剣に取り組むことをほとんどあらゆる領域において阻害してきたといえる。……いまや、死者を悪く言うべきでない、という声が聞こえてくる。このようにして人々は、歓迎すべからざる議論を、将来もしないままで済ませようとしている」(南ドイツ新聞同9日、ドイツ)。

 フィリピンのジャングルから30年ぶりに生還した元軍人・小野田寛郎は報道陣に一言求められ、「私は天皇について絶対に話さないと決めている」とかたくなに口をつぐんだ。天皇問題が戦後何年たとうと日本ではタブーであることを知っていたからだろう。

 本島市長はこう言っている。「(日本では)制限付きの言論の自由という考えを持っている人が多いのです。……これから先の教育では、言論の自由のために、たとえ自分が悶絶して死ぬようなことを言われても、それが暴力や相手のプライバシーを犯すことや非難中傷などではない限り、受け入れなければならない、そこまで言論の自由が徹底されるようにしなければならないと思います」(『長崎市長のことば』)。

(『戦争と新聞』より抜粋)

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