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「ことば」をめぐる冒険 紀伊國屋書店員さんおすすめの本

記事:じんぶん堂企画室

日本語をめぐる冒険

 とある読書会へ通っていた頃に、興奮で我を忘れて喋(しゃべ)りすぎてしまった本がある。その本とは、河出書房新社刊、池澤夏樹=個人編集『日本文学全集 30 日本語のために』だ。

 当全集の中でも異彩を放つこの一冊は、日本語の歴史的・地理的な広がりを見渡しながら、多種多様な文体と論考を収めようという編者の欲張りが形になった、画期的なアンソロジーである。

 多彩なだけではない。各章を読み進めれば、古代の言葉が豊かな土壌としてあり、そこに文字や宗教や文学や文明が、ある時には養分になり、またある時には開拓者となって、日本語を育んできた歴史が浮かび上がってくる。その日本語そのものへ切り込んだ考察では、日本語を翻弄する人々の姿や、日本語が急速に衰えていく様が鮮やかに描かれているのだ。

 言葉は人の内側にも外側にもあるものだから、言葉について語ることは、自らの内と外とを行き来するような不思議な感覚をもたらしてくれる。日本語が歩んできた道をなぞっていくうち、この本は私を未知の場所へと運んでいった。幸せだったのだ、その旅路の豊潤さが。そして私は喋りすぎてしまった。

 身近でありながら奥深い日本語の世界に、新しい角度から触れたいとき、この本は絶好の入り口になるだろう。

ことばが必要だ、それは私たちにも

 興奮とは違う方向で、心を掴(つか)まれた本がある。

 『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』は、韓国フェミニズムムーブメントの中で、「自分を、そしておたがいを、蔓延(まんえん)する暴力から守る」ために書かれた本である。女性たちに護身術となる言葉を授けるべく、強者の言動に潜む矛盾と身勝手さを暴きながら、容易(たやす)くかき消される弱者の経験を丁寧にすくい上げる、著者渾身(こんしん)の救済の書だ。

 フェミニズム、と言うと敬遠される方もいるかもしれないが、彼女の言葉を貫くのは、「自分を大事にしてもいい」というメッセージだ。この本で目指されているのは、人々が平等に関わり合うという、ただそれだけのことなのである。

 それだけのことであるのだが、実際の日常にはいかに多くの不平等が、不公平が、理不尽が、無知が、軽視が、差別が、潜むどころか至る所に顔を出しているのか、この本を読めば嫌になるほど思い知らされる。(男性である)私は、自身の言葉を顧みずにはいられなかった。弱者が身を守るための言葉を提供するのが本書の目的だが、本当は強者の方こそが、新しい言葉を、平等のための言葉を獲得しようとしなければならないのだ。

 悔恨の一方で清々しさを感じたのは、本書が新しい言葉への道筋をつけてくれているからだろう。言葉が生まれ変わったとき、それは日本語の新たな1ページになるに違いない。

人間は変わることができるか。人間は、どこから変われるか。

 「これが、この本をつらぬく主題だ」と、文庫版解説の中で社会学者・真木悠介は見出しのセリフから語り始めた。そして続ける、「この本の魅力は、この問いを問うその仕方の、おどろくべき具体性にある」と。

 『ことばが劈(ひら)かれるとき』は、演出家・竹内敏晴の半生とその思索が詰まった自伝的エッセイだ。難聴と失語の経験から、「ことば」の問題に取り憑(つ)かれた彼は、演劇や教育の舞台でも「ことば」を主題とした取り組みを続けた。ここでの「ことば」とは、情報社会における記号化した言葉ではない。相手へとはたらきかけ、じかに関わりあうための「ことば」、そこでこそ自己を実現できる、いのちの証であるような「ことば」だ。

 近代化の末の管理社会は、人々の言葉を“制度としての技術用語”へと疎外した。客体化された言葉と体を、主体としての「ことば」と「からだ」に回復するにはどうすれば良いのか。本書において、この問いへの応答が理論に堕しない身体性と具体性を併せ持つのは、竹内自身が「ことば」の獲得を目指した道程が重なり合っているからだ。それゆえ彼の文章には、ひとつの人生に支えられた切実さと力強さがある。

 先人が新しい言葉を獲得しようとしたその一つの道程を、ぜひ体感していただきたい。

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