「写真論」を考える 常に撮る/撮られる状況に置かれている私たち 紀伊國屋書店員さんおすすめの本
記事:じんぶん堂企画室
記事:じんぶん堂企画室
2・3年前に芸術書売場へ配属されてから、ずっと気になっていた棚があります。ポップで実用的な技法書に並んでひときわ異彩を放つ、「写真論」の棚です。
この十数年で、私たちを取り巻く写真状況が激変してきたことは、写真に明るくない私でも実感できます。私が小学生の時にプリクラが登場し、「チェキ」をはじめとするインスタントカメラが流行、その後デジタルカメラも普及しはじめました。高校を卒業する頃には私も友人たちも、高機能カメラを搭載したスマートフォンを持ち歩き、撮影した写真を気軽に拡散できるSNSが生活の一部、あるいは中心とまで言えるような社会になりました。Instagramのメインストリームは「映え」からナチュラル志向にシフト、そこからも更に変化しつつある昨今、私たちは常に何かを撮る/撮られる状況に置かれていると言えます。こうした状況を分析するのが、写真論の役割の一つと言えます。
写真論は社会、文化、果ては人間の認識や存在までをも分析の射程とする、非常に奥深い世界です。また、技術的進歩が顕著な分野であるからこそ、「今」考えるべきテーマを豊富に内在させているように感じられます。今回は3冊の本を通じて、そんな写真論の世界の一端に触れてみようと思います。
最初にご紹介するのは、写真論の代表的古典であり、定番書でもあるロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』(みすず書房)。現象学的な手法を用いながら、写真という存在の本質(=写真が孕んでいる問題)へと接近していく一冊です。後半部分は自伝的哲学エッセイという側面もあり、その意味でも最初に取り組みやすいのではないでしょうか。
筆者なりの解釈でポイントだけかいつまむのなら、写真とは「情報を読み取るメディア=ストゥディウム」であり、社会的背景などの文化的コードに沿ってまず観られます。しかしそれとは別に、特定の写真は私という存在に対してだけ(あるいはそう思われるように)、何かを表すものとして存在します。バルトは写真のこうした側面を、ラテン語で「傷」を表す語を用いて「プンクトゥム」と呼びました。バルトによれば、写真にはストゥディウムとプンクトゥムの両面性があり、その本質・ノエマは《それはかつてあった》という命題で言い表されます。
レンズで捉えたそのままの姿ではなく、レタッチ(=画像加工)を前提とする現代の写真芸術は、バルトの眼には果たしてどのように映るのでしょうか。
続いては、昨年「好書好日」書評でも取り上げられた、甲斐義明『ありのままのイメージ スナップ美学と日本写真史』(東京大学出版会)。日本における写真史を、「スナップ」という撮影技法(あるいは美学)の観点で捉え直した労作です。
「スナップ」とは、「広義では手持ち小型カメラで素早く撮影された」、「狭義では被写体に気づかれずに撮影された」写真および撮影技法のこと。著者はスナップ美学の根底には、「『作り込んでいない』写真によって世界のありのままの姿に触れようとする願望」があると言います。「被写意識を少なめる」技法を追究した木村伊兵衛、「絶対非演出の絶対スナップを基本的方法とするリアリズム写真だけが、社会的現実そのものに直結する」というリアリズム写真を唱えた土門拳らは、こうした意識のもと日本におけるスナップ写真を開拓していきました。その営みの中には、「ありのままの世界が存在する」というバルト的な確信があります。
マスメディアや広告代理店による写真イメージの氾濫は、写真を通してしか世界を見ることができないという印象を与え、かつてスーザン・ソンタグが憂いたように、「写真になるものを探して経験を狭めたり、経験を映像や記念品に置き換えてしまう」悲劇を招いてしまいます。著者は、こうした状況に対する抵抗手段になり得るのが「行為としてのスナップ」であると説きます。《それはかつてあった》を決定付けるスナップの成立は、誰もが高性能なカメラを持ち歩き、あらゆる経験を写真に収めて拡散し、それを消費することで世界とつながる現代人へのアンチテーゼと捉えることができるのではないでしょうか。
最後にご紹介するのは、港千尋『写真論 距離・他者・歴史』(中央公論新社)。副題に冠する「距離」「他者」「歴史」の観点から、安部公房、ピカソ、プルースト、ル・コルビュジェなど幅広い分野を横断しつつ、写真のもつ社会的役割・人間的意義について迫る挑戦的な論考です。筆者は予備知識が無くても、比較的読みやすい本だと感じました。
個人的に興味深かったのが、写真家のスタイルについての考察。本論は「ほとんどの写真家がスタイルを変えることがない」事実を出発点としながらも、「ただしそれは(…)不変のものではない」という可能性を示唆しています。
まずガタリの「顔貌機械」論を背景に、「顔認証システムは(…)世界規模で爆発的に編成が進んで」おり、パンデミックがそうした編成を更に促進させている点が指摘されます。新たな仕方で増殖するカメラが、新たな眼≒新たな他者を形成し、それがハビトゥスとして機能する。これまで構造的な傾向性によって定められてきた写真家の在り方が、こうした写真を取り巻く環境の変化によって、変わりつつあると言うことができます。不変の「撮る存在」であった写真家の定義も、今や誰もが写真を撮る/撮られる存在となったことで、揺らいでいるように。
日常のふとした瞬間に、スマホカメラを向けている私/あなたは果たして何者なのか? 撮影が行われるその瞬間、一体何が起こっているのか? 写真を観るとは、存在論的にどのような事態なのか? こういった思索を巡らせるのに、恰好の3冊を紹介しました。読者の皆さまもこれを機に写真論の世界に触れ、写真という主題の巨大さに圧倒されてみませんか。