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なぜ他者を“叩く”のか?――政治的正しさと「叱る依存」 紀伊國屋書店員さんおすすめの本

記事:じんぶん堂企画室

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「感情の道徳」と「理性の道徳」

 ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳 学問・功利主義・ジェンダー・幸福を考える』(晶文社)は、動物の倫理、寄付、ジェンダーといった「ポリティカル・コレクトネス」をめぐる様々な争点について、豊富な視座を提供している。例えば寄付。「遠くの見知らぬ人よりも、身近で苦しむ隣人にこそ手を差し伸べるべき」と言われると、直感的にはもっともらしく思える。しかし、手持ちの資源で最大限の影響を及ぼすことを目指す「効果的な利他主義」の立場であれば、距離の遠近は関係なく、最貧困の人達へ手を差し伸べるべきという異なる見解が導き出される。

 こうした立場の違いは、道徳を主に感情で捉えるか、理性で捉えるかの違いであることが多い。著者は、ダニエル・カーネマンが唱道する「オートモードの道徳」(感情に基づく道徳)と、その対として「マニュアルモードの道徳」(理性や統計に基づく道徳)で整理を行う。

 「オートモードの道徳」はその名のとおり、不正を目にしたり、天災による被害のニュースを見聞きしたりする際に、「許せない!」「自分に何ができるか?」と心自然に(自動で)沸き起こる感情に基づく道徳のことである。一方の「マニュアルモードの道徳」は、先ほどの「効果的な利他主義」のように、統計データや科学的な知見も参照し理性的な判断を行う道徳のことである。

 感情に基づく道徳は確かに人々の共感を呼ぶが、同時に盲目的で、近視眼的な対応に終始する危険性がある。しかし感情がなければ、そもそも道徳的関心=他者への配慮を抱けないという問題もある。全編を通して理性に基づく「マニュアルモードの道徳」の重要性を再三説く一方で、読書やメディアを通じた「物語的想像力」の涵養を通じて、道徳的関心を獲得することの意義をも説く著者の主張は説得力がある。感情と理性を往復し、自らの道徳的態度を反省する姿勢を意識したい。

なぜ他者を “叩く” のか?

 ネット上では今日も何かが、誰かが「炎上」している。道徳的に不適切な言動を行ったのだから叩かれるのは当然なのだろうか。では、成績が悪い部下を叱る上司、言う事を聞かない子を叱る親は正しいのだろうか。村中直人『〈叱る依存〉がとまらない』(紀伊國屋書店)では、叱る行為が生まれる原因から、それが加速していく理由を臨床心理や脳科学の知見から解き明かしていく。

 「叱らないといつまでも成長できない」という叱る側の主張があれば、「あのとき叱られたからこそここまで成長できた」といった叱られる側の主張も珍しいものではない。しかし著者によれば、「叱る」という行為の効果は非常に限定的であり、①「危機介入」(目前にある危険の回避)と②「抑止力」(予期される危険や望ましくない行動の回避)においてのみ効果があるという。叱られているとき人は「これ以上叱られたくない」という考えで頭が支配され、失敗の原因や適切な行動を考えることができなくなるからだ。その結果、いくら叱っても期待した結果が得られず、エスカレートし、ついには本書のテーマである〈叱る依存〉の状態に行き着く。

 パワハラ上司や、いつも怒っている教師や親を想像すると、まさしく叱らずにはいられない状態=〈叱る依存〉に陥っている様子を思い浮かべることができる。この理由として、叱ることには「自己効力感」(自分が相手に良い影響を与えていると感じることの快感)と「処罰感情の充足」(他人を処罰することによる快感)との深い繋がりがあると指摘する。ネット上の「炎上」についても、同じく「処罰感情の充足」が理由のひとつに挙げられ、著者はバッシングの「エンターテインメント化」と表現する。

 〈叱る依存〉が快感を媒介とした脳内メカニズムに深く関係している以上、叱ることが効果のないことだと理解できていても、直ちに禁じることは非常に困難だ。叱らないで済むよう予防策として著者が紹介する「前さばき」はとても参考になる。「できない(未学習)」に対しては、知識・技能・興味などの準備を行い、相手に合ったやり方を工夫し、主体的な学習を促進することで、叱ることを未然に防ぐ。「しない(誤学習)」に対しては、相手の背景を考え、何をして欲しいのかを具体的に伝えることで相手を適切な行動に導き、叱ることを未然に防ぐ。こうした「前さばき」に注意を払うことは、叱られる立場で考える際にも有効だろう。

権力と快楽の共依存関係

 他者を叱る際に「自己効力感」と「処罰感情が充足」され快感を得ると同時に、叱られる側も「(叱られる時だけ)自分に関心を持ってもらえる」という歪んだ形で、自ら叱られることを求め、それに依存するケースもある。叱る/叱られることでお互いの存在価値を見出し、そこには共依存関係が成立している。ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』(渡辺守章訳、新潮社)は、社会構造に潜む共依存関係を明らかにする。

 フーコーによれば、権力とは支配-被支配の関係における権威的かつ一方的なものだけにとどまらず、無数の力関係であり、闘争と衝突をつうじて変化することもありうるゲームとされる。快楽をコントロールすることが権力の存在意義となる一方で、権力によって特定の快楽を規定することで、そこから逸脱する快楽にも「変種」として光があたるようになる。こうした権力と快楽の螺旋構造=いたちごっこは、社会に組み込まれた共依存関係と言えるだろう。

 本書ではさらに、権力と快楽に知と言説を加えた4要素が相互に絡みあい、社会で構成される様子が鮮やかに考察される。本書を初めて手にして読んだとき、あたかも推理小説を読んでいるかのようなとてもスリリングな感覚を味わった。社会の構造について思索をめぐらすヒントが全編にわたって散りばめられており、是非おすすめしたい。

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