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学校教育の課題は家庭階層をシャッフルすること 芦田宏直『シラバス論』

記事:晶文社

子どもではなく家庭の階層を選抜する試験

 たとえば東京の名門私立学校の入学試験は、親の面接試験を通過しないと学力試験(メリトクラシー)だけでは入学できない。場合によっては卒業生家族の推薦が必要な私立学校もある。親は、面接の時だけは派手な衣装や装飾類を抑えめにして面接に臨むと言われている。つまり、紙試験(ペーパーテスト)点数と経済力だけでは入学できない階層のハビトゥス(ブルデュー)のようなものをそれらの学校群は選抜している。子どもの主体性はこれらの学校の選抜評価においてはこの階層のハビトゥス、家庭のハビトゥスによって保護されている。もし子どもの主体性や自発性を尊重すると言いながら親の面接評価があるとしたら、子どもの主体性や自発性などなにも尊重されてはいないのである。つまりこの選抜試験では、子どもが選ばれているのではなくて家庭(家庭の階層)が選ばれている。しかも文化的な家庭が。

 逆に言えば、紙試験(ペーパーテスト)の点数主義はそういった階層性評価をパスする装置だったと言える。身なりや素行や話しぶりがどんなに下品であっても──身なり、素行、話しぶりといった人物論的な性向は家庭環境のような長い時間の形成物であるため、〝勉強〟の対象になりづらい──、紙試験(ペーパーテスト)やマークシート試験は──紙試験(ペーパーテスト)であってもその一部に「記述問題」が出題されれば、面接要素が出てくる。記述試験は、紙試験(ペーパーテスト)における面接試験とも言える。「文は人なり」というように──そういったハビトゥスをとりあえずは棚に上げることができるからである。

 「実力主義」というのは貧者のレトリックだとペレルマンは言っていたが、点数・知識主義的な学歴主義(メリトクラシー)こそ実力主義のことを意味している。社会的貧者(あるいは家庭貧者)が学歴主義を否定してしまうと貧者の立場はますますなくなってしまう。紙試験(ペーパーテスト)〈点数〉そのものには素行や階層は直接的には見えない。面接の人物評価主義には、それはよく見える。中国の科挙制度が貴族の世襲制選抜をシャッフルできたのも、当時の中国における「豊富な紙と進んだ印刷技術」(與那覇潤『中国化する日本』)があったからだ。

 この問題はしたがって、苅谷剛彦の言うような家庭格差における「意欲の格差」ではなくて、臨教審答申に由来する評価の多様化、つまり「観点別評価」の巻き起こした教育トラブルなのである。家庭の教育文化格差(特に母親の学歴の高低)としての「意欲の格差」が「知識格差」になってしまったのではなくて、意欲──苅谷の言う「学習時間」の長短とは何の関係もない、人物論的な意欲(観点別評価)──で知識点数が補われることによって「知識格差」が広がった。そしてその受け皿が大学全入時代のAO入試──〝過去〟は問わない、〝未来〟を問う〈意欲〉入試──だったのである。九〇年代以降、高校、大学ともども知識評価の場所が消えたのである。

階層のシャッフル装置

 しかし〈意欲〉に逃げずに、〈知識〉点数評価割合を増やしていけば──科目の履修評価割合を期末試験一〇〇%にすれば──親の階層に縛られない個人(=学びの主体)が露呈する。少なくとも教科指導の純粋な課題、つまり教員は授業中に何をしたかったのか、何をしたのか、何ができたのかが見えるようになる。生徒・学生たちにとっても、教員にとっても授業で何をやればいいのかが明確になって、学生の学習の課題も教員の教育の課題もはっきりする。

 階層(家庭主義)を超えて個人を尊重し、その意味での科目指導の課題を見ようとすれば、知識主義の立場に立つしかない。そもそもそれが〈学校教育〉の立場だった。福澤諭吉の『学問のすゝめ』(初版は明治五年)の意義は、「学問をして物事をよく知っている」かどうかが「地位」の「高低」に関わっていたことである。それは江戸時代の身分社会を超える原理だった。つまり〈学校教育〉の「知識」主義は階層のシャッフル装置としてのみ意味を持つことになったのである。苅谷たちが調査した「関西調査」でもカリキュラム次第で家庭格差(貧富の差)に依存する知識格差は縮まることが──場合によっては、家庭格差が逆転することが──報告されていたのだから(『調査報告「学力低下」の実態』岩波書店、二〇〇二年)。

 つまり学校教育における「多様性」課題は、個人の多様性=個性を意味するのではない。人物入試を主導した下村博文は「教育とは、一人ひとりの可能性を高めていくためのバックアップ機能です」と言っていたが、こんな人に文科大臣を任せておくと、最後には「勉強ができない」ことまでもその子の「個性」だと言い始めるに違いない。多様性は「一人ひとりの可能性」において考えられることではなく、同一階層、特には高い階層の中に、どれくらい多様な出自の「個人」が存在しているかという「多様」でなければならない。それは階層内の出自の多様性であって、個人の個性的な多様性を意味しているわけではない。

学校機能の自殺行為

 近代的な〈個人〉とは、一言で言えば親の階層からの自立を意味する。それは、家計の自立を単に意味するのではない。「人格の完成」とは親の階層から自立できる〈個人〉を育成することである。だからそれは発達心理学の課題でも、人物論(コンピテンシー論)の課題でもない。

 学校教育(特に公教育)の課題は親の世代の階層を子どもの新世代においてシャッフルすることなのである。だから、〈学校教育〉が〈家庭〉と連携することは学校機能の自殺行為だと言える。そんなことは東京の名門私立学校に任せておけばいい。一般的に言って〝できない〟子どもたちの家庭は家庭自体が崩壊しているのだから。「家庭教育の重視」に臨教審答申はかなりの紙幅を割いているが──つまり教育早期から「個人の尊厳」「子どもの自律性」「自発性」「自ら学ぶ意欲」「個性」などを重視する教育思想はかならず保守的な家庭主義に侵されているのだが──、重視すればするほど階層シャッフルは起こらない。親の階層を再生産するだけのことになる。「個性重視」にかかわる「学びの主体」論については、人それぞれ顔が違うように、そして親が違うように個性があると言っておけばいいだけのことだ。それは、〈学校教育〉と関係なく存在する個性でしかない。

多様性に寄与するシラバス

 一度校門をくぐれば、そしてクラスの教室に入れば、子どもたちみんなが家庭文化格差と関係なく平等に扱われることの意味は、その教場における教育が「知識」教育だからである。それがいちばん〈個人〉が露呈する教育だからだ。文科省も臨教審思想が薄まりはじめた頃から「知識基盤社会」(二〇〇八年「学士課程教育の構築に向けて」中教審答申、二〇一二年「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて」中教審答申)という言葉を使っていたが、依然として下村色の強い「二〇四〇年に向けた高等教育のグランドデザイン」(二〇一八年)では本文からその言葉は消えている。

 下村博文が新大学入試でやったように「知識の画一主義」を訴えて〈知識〉を矮小化すると、階層流動性は減少する。〈知識〉が階層流動性の「基盤」だからだ。そもそも大学教授会を文科省がいくらコントロールしようと思ってもコントロールできないのは、この組織が〈知識〉に定位した組織だからである。世の中にこんな「多様な」人物がいる組織はあるのだろうかと思うくらいに──「それなりに才能がある、つまりそれなりの才能しかない」出自の多様を高田里惠子は「グロテスク」と呼び、「秀才と優等生は、日本では侮蔑語である」と言い切っていた──、大学教授会は階層的に「多様」である。だからまとまらない。教授たちは知的だからこそ「多様」なのである。

 シラバスの意義は、〈学校教育〉の本来の多様性議論に寄与し、まさに大学本来の「知識」教育に復帰するためのものである。もちろんこの〈知識〉は〈実践〉や〈実習〉や〈実学〉と対立などしていない。大学教育においてこそ、〈実践〉も〈実習〉も〈実学〉も知的、専門的でなくてはいけないのだから。〈演習〉や〈アクティブ・ラーニング〉になると、途端にシラバスの中身が薄くなる授業は、かならず「観点別評価」が前面化している。それらはすべて作業意欲──かの「線形代数」科目の「行動目標」のように──を評価しているだけのこと。つまり少しも「知的」ではない。今や大学の授業のほとんどは、古典的な講義授業でさえ、街の講座屋さんのような学生おもてなし授業に堕している。一六〇〇〇〇字のシラバス論がターゲットにした授業は、この種のおもてなし授業である。
(芦田宏直『シラバス論』より抜粋)

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