1. じんぶん堂TOP
  2. 哲学・思想
  3. 私たちはずっと気づかないまま『中世思想原典集成 精選』を求めてきた

私たちはずっと気づかないまま『中世思想原典集成 精選』を求めてきた

記事:平凡社

 新海誠の映画『君の名は。』を見て以来、新海映画にはまって、彼の作品をいくつか見続けた後、ついに今年『天気の子』を見た。感激した。頭の中が少し「新海誠」化したようだ。新海映画を「中世スコラ頭」で見ると(その必要はないのだが)、現実を越えた別世界が現れる。

 私は中世スコラ哲学を、新海映画を見るときのような「ときめき」を持ってずっと読んできた。しかし、どうだろう。それを語り続けても、身近なところで、翻訳や研究書に触れる機会は少なかった。昔の海外旅行のようなものだった。それが、平凡社ライブラリーで『中世思想原典集成 精選』として完結した。これはとても画期的なことなのである。

近世哲学は中世哲学の受け売りだった

 なぜ中世哲学はすごいのか。個々の思想家に踏み込んで語ることが本筋だろうが、ここでは「世界哲学」という観点から考えよう。

 西洋と東洋とを比較する方法は昔からあった。何度も試みられ、それほど華々しい成果があったと言いにくい。西洋中世とは、長い間、近代が暗黒時代として隠蔽し埋葬しようとした思想群だった。埋葬されるべきだったのは、近代の思想の圧倒的な起源だったからだ。近世哲学が中世哲学の受け売りだったという言い方はそれほど大きな誇張ではない。

 デカルト以降の近代哲学の方が、概念における重装備を必要としない。その意味では軽快だ。しかし、中世哲学は、微細なる概念装置にも豊かな思想群が見出されたりする。

 大事なのは、巨大な枠組みの変化が、砂漠の上に置かれた巨石のように、ゴロンと見出されることだ。西洋は、ギリシア哲学以来、思想の表街道においては、「実体」「主語述語」という枠組みにずいぶん拘束され、近代になってもその拘束は続いた。ところが、中世は既にそういった枠組みとは違うものが展開されている。

 ところが、それらは「神学」という名前の下に、宗教的迷信として捨て去られてきた。中世の神学は、宗教的な側面は予想外に少なかったりする。というのも、「信仰」は議論の成否を左右できないからだ。

 神が語られようと、神をも恐れぬ所業と心配する必要はない。神をどのように論じても、許容される自由さがある。近世において宗教改革以降、一時的に弾圧が強まったことがあるのは事実だが。中世神学の議論は実はあまり神がかっていないのである。

中世哲学という知の宝庫

 中世スコラ哲学における言語や論理をめぐる一見片々たる概念構成が、宗教組織、人権論、救済論、政治的権威、自然法論、平和論への基礎を提供するものであるという理路が見えてきたとき、細部と巨大なものが結びつく通路が見えてくる。小さな少女の祈りが、気象現象を左右するかの如き、存在するかもしれない、隠れた道筋を示してくれるかもしれない。

 私には、中世哲学の埋もれてきた知の宝庫は、予想もしない大きなものを内包しているのかもしれないし、いや少なくとも叙情性の緑なす高原に思える。清涼なる知の散歩への入り口としての『中世思想原典集成 精選』、心からその完結を祝福したい。

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ