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ホメロスの時代から今でもなお、女たちは黙らされてきた メアリー・ビアード『舌を抜かれる女たち』

記事:晶文社

女が発言すること

 西欧文学の伝統がまさに産声をあげた頃にさかのぼり、男が女に「黙れ、女は人前で発言してはならぬ」と告げた最初の例から話を始めたいと思います。私の念頭にあるのは、約三千年前にホメロスが書いた『オデュッセイア』の冒頭部分に永久保存された瞬間です。『オデュッセイア』は英雄オデュッセウスの物語であり、彼がトロイア戦争のあと帰郷するまでの冒険と試練の数々を描いた叙事詩だと今では考えられています。

 そしてオデュッセウスが留守にしていた数十年間、妻のペネロペイアは、結婚を迫ってくる求婚者たちを退け、一途に夫を待ち続けるのです。でも『オデュッセイア』は同時にオデュッセウスとペネロペイアの息子テレマコスの成長物語でもあり、叙事詩が進んでいくにつれて少年だった彼がひとりの男になっていく様子が描かれています。問題の出来事は、この叙事詩の第一歌で、ペネロペイアが王宮の自室から大広間に下りてきたとき、求婚者たちの群れの前で吟唱詩人が歌をうたっているのに出くわすところから始まります。

 それは、ギリシア軍の英雄たちが故郷に帰るまでの苦難をうたったものでした。ペネロペイアは不快に思い、もっと楽しい別の歌をうたってはもらえないかと人々の前で頼みます。すると若きテレマコスがそれを遮って言うのです。「母上、今は部屋に戻って、糸巻きと機織りというご自分の仕事をなさってください……。人前で話をするのは男たちみなの仕事、とりわけ私の仕事です。私がこの王宮の主なのですから」。そしてペネロペイアはその場を去り、階上へ戻るのです。

 青二才の若者が、人生経験豊富な中年女性のペネロペイアに口をつぐめと命じるとは、ずいぶんとおかしな話です。でも、西欧文化の記録が始まるまさにその時点で、女性の公的発言が封じられる様子が描かれるとは、これ以上わかりやすい例示はありません。さらには、ホメロス自身が主張しているように、おおやけの場での発言権をコントロールし、女という種にはしゃべらせないようにすることこそ、男が大人になるうえで欠かせない要素なのです。

 ここでテレマコスが実際に使っている言葉もやはり重要です。「人前で話をする」と彼が言ったときに用いた単語は〝ミュートス muthos 〞です。現代に伝わるのは「神話」という意味ですが、ホメロスの時代のギリシアでは、公的な場での権威ある発言を意味しました。いわゆるおしゃべりとか無駄話とか噂話とか、女性も含む(あるいはとくに女性が好む)誰もができる行為ではないわけです。

 私の関心は、女性の発言を封じるこのホメロスの古典の一場面と、女性の公的発言がやはり阻まれがちな現代の傾向との関係にあります。現代でも、議会から仕事場までさまざまな政治的な場において、女性は黙らされています。このことは一般にも認識されていて、古い『パンチ』誌の漫画で辛辣に皮肉られています。「それはすばらしい提案ですね、ミス・トリッグス。たぶんここにいる男性諸君の誰かが同じ提案をしたいはずです」

 現代でさえ、おおやけに発言したことで女性たちの多くが嫌がらせを受ける、その事実と古典のあいだに何か関係があるのではないか。紙幣に女性の肖像が載ることに賛成と公言すると、ツイッターでレイプや斬首刑をほのめかす脅迫を受けることと、テレマコスが母ペネロペイアを退けたこととのあいだには関係があるのではないか。心の片隅でそんなことをずっと疑問に思っているのです。

 女性の声と、公的な場で演説したり議論したり発言したりすること(つまり職場での会議から国会まで、広い意味での政治)のあいだには、文化的不和がある――。この事実について、私はここで長期的な、それもものすごく長期的な視点に立って眺めてみようと考えています。私たちはつい怠けて何でも簡単に〝ミソジニー(女性嫌悪)〞のせいにしがちですが、はるか遠くまで見渡せば、もっと別の見方ができるようになるかもしれないからです。確かに、〝ミソジニー〞は今の状況を表すひとつの考え方です(テレビの討論番組に出演したあと、あなたの性器をさまざまな腐った野菜に喩える不愉快なツイートをどっさりもらったりすれば、ミソジニー以外にそれを説明する言葉はなかなか見つからないでしょう)。しかし、たとえ黙らされないまでも、女性が発言しようとすると高い代償が伴うという現実を理解し改善しようと思ったら、ミソジニーでは片づけられない、もっと複雑な事情が背景にあると認識する必要があります。

(『舌を抜かれる女たち』より抜粋)

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