知的体幹を鍛え、思考の基盤を厚くする読書法 楠木建『室内生活』
記事:晶文社
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子供のころから本を読むのが大好きで、読書に明け暮れていた。寝転がって本を読む。そのうちに寝てしまう。昼寝から覚めると続きを読む。ずっとベッドの上にいた。
ひとつの理由は、アフリカ(南アフリカ共和国のヨハネスブルグ)で育ったという環境があるように思う。テレビもねえ(当時、かの国にはテレビ放送というものがなかった)、ラジオもねえ(ラジオ放送はあったのだろうが、言葉が日本語でないので家庭では聴く習慣がなかった)、という環境。読書ぐらいしかすることがない。電話とガスはあったと思うが、バスは一日一度も来なかった。学校以外は自分の家が生活のすべて。室内生活者としての基盤が形成された。
近所に友達もいなかった。道を挟んだ斜め向かいにポルトガル系の家族がいて、同い年ぐらいの兄弟が住んでいたが、言葉もうまく通じないし、何より連中はやたらとアグレッシブな性格で気も合わない。一緒に遊ぶことはほとんどなかった。
環境よりも大きな理由は僕の性格にある。とにかく非活動的。スポーツよりも読書。友達と遊ぶよりも一人でいるのが好き。アウトドアよりもインドア。室内生活者としての素質に恵まれていた。
性格は変わらない。というか、そう簡単に変わらないものを性格という。日本に帰国して、ごく普通に高校、大学へと進んだものの、その先の展望が開けなかった。チームワークがさっぱりダメ。頑張りが利かない。とりわけ「全力投球」がイヤ。競争はまっぴらごめん。そもそも闘争心がない。挑戦なんてもってのほか──大学生にもなると自分の性格(というか、ありていに言って欠点)を十分に理解するようになった。ようするに、「根性」が全面的に欠落しているのである。
世が世なら貴族になりたかった。貴族であれば、部屋に閉じこもって好きな本を好きなだけ読んで生きていける。僕にとって、これほどいい仕事(?)はない。貴族に生まれなかったのを恨んでも仕方がない。
大学卒業は「さあ、そろそろバブルですよー、準備はいいですかー?」という昭和晩期。新卒の就職は圧倒的な売り手市場だった。周囲の友達は躊躇なく一流大会社に就職していった。せっかくなので一度は経験しておこうと思い、友達と一緒にとある銀行の就職面接にいった。面接官は「話を聞けば聞くほどキミは銀行員に向いていなさそうだけど、とりあえず内定を出す。嫌だったら辞めればいいから……」と、あからさまに員数合わせの対応をしてくださった。
さて、どうしたものか──。現実的な仕事でもっとも貴族に近似したものは何かと考えてみた。たどり着いた結論が、大学で研究したり教えたりという学者の仕事だった。大学に入ったころは、学者になろうなどとは夢にも思わなかった。きっかけは所属していた経営学のゼミの指導教官、榊原清則先生との会話だった。
「あなたねぇー(先生はここぞというときは〝あなたねぇー″というのであった)、就職なんかしたら不幸で口が曲がっちゃうよ! 就職しないで大学院に行くしかないね、あなたは……」と口を曲げながら断言された。
「口が曲がっちゃうよ」という言葉に妙にリアリティがあった。うかつに会社に就職などしようものなら、不幸が待ち受けているという予感がいよいよリアルに迫ってきた。考えてみれば、学者は基本的に一人でやる仕事。上司も部下もいない。時間も自由で、キツい利害関係もなさそう。自分のペースで仕事ができそう。少なくとも本はたっぷりと読めそうだし、ありがたいことにそれが正々堂々とした仕事になる。貴族の次善の策として、なかなか秀逸なのではないだろうか──。自分の将来に一筋の光明が差してきた。
考えてみれば、僕が何よりも好きなのは「考える」という行為なのだ。何かを知りたくて本を読んでいるわけでは必ずしもない。読書が無類に好きなのも、それが考えるための日常的手段としてもっとも効率的で効果的だからだ。おまけに書くことも大好き。卒論でもない普通の講義の期末レポートでも、ちょっと油断をすると原稿用紙で100枚になんなんとする「大作」を書いてしまう。読んで、考えて、書く──。いかにも素敵な仕事に思えた。
その後、若干の滑った転んだを経て大学に職を得た。仕事でも室内生活が始まった。駆け出しの2年ぐらいは、講義以外ではほとんど人とも会わず、下手をすると1週間ぐらいは誰と会話することもなく、自分の研究室で読んだり考えたり書いたりと、研究の真似事をしていた。
さらに若干の紆余曲折を経て、30代の半ばから競争戦略という分野で仕事をするようになった。本を出すようになると、書評や書籍解説の注文がぼちぼち来るようになった。はじめのうちはごくたまにしかなかった注文が次第に増えてきて、いまではすっかり副業というかサイドメニュー的な出し物として定着した。
どっちにしろのべつ読んでいるのである。読めば考えることがある。それを文章にして人様に読んでもらう。しかも何がしかの対価もいただける。書評書きは僕にとってこれ以上ないほどありがたい仕事だ。
書評家を名乗るほどの覚悟も力量もない。あくまでも本業のサイドメニューに過ぎない。それでも心持ちは貴族。公爵や伯爵とはいえないまでも、男爵ぐらいの気分になれる。この業界は原稿料がヒジョーに安いのも、経済的な損得に恬淡とした貴族らしくてイイ。半世紀近くを経て、子どもの頃の貴族の夢が半ば実現したといっても過言ではない。
ある人に「あなたにとっての書評はラーメン屋がついでにチャーハンを出しているようなものですね」と言われたことがある。サイドメニューといえばその通りなのだが、実感は少し違う。ラーメンとチャーハンは相互に独立した別物である。しかし、書評の仕事はその基底で僕の本業と密接な関係にある。
その本が経営や競争戦略と一見無関係なものであっても、「考える」という行為としては本業と共通している。僕にとっての読書は、アスリートにとっての基礎練習に等しい。室内で寝ながらできる走り込み、汗をかかない筋トレ、体を動かさないストレッチのようなものだ。本さえあれば、1年365日、呼吸をするように考えられる。これが知的体幹を太くし、思考の基盤を厚くする。
つまり、ラーメン屋のスープづくりのようなものである。厨房の真ん中にある大鍋で、年がら年中グツグツと煮込み、ダシを取る。スープが美味しくてこそのラーメン。僕にとっての書評書きはラーメン屋のチャーハンというよりもスープのようなものだ。チャーハンについてくる、ラーメンのそれを流用したネギを浮かしたおまけのスープといってもよい。
本書にはこれまでに書き溜めた書評や書籍解説のほとんどすべてを収録してある。あえてラーメン屋のスープだけをパッケージして世に出すという、わりと無謀な試みである。映画や食べ物など読書以外の室内生活について書いてきた文章もおまけとして入れてある。こういう本が商品になるとは思ってもいなかった。
(楠木建『室内生活──スローで過剰な読書論』より抜粋)