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アヴァンギャルドな児童文学作家「上野瞭」を読む

記事:創元社

写真提供 上野定子・上野宏介
写真提供 上野定子・上野宏介

国家体制に警鐘を鳴らす児童文学作品

 戦争の悲惨さを身をもって体験した上野は、作家人生のスタートとも言うべき作品『ちょんまげ手まり歌』(1968年、理論社)の中で、「やさしいお殿さま」が支配する架空の藩を舞台に、国家とその犠牲になる人々のからくりを見事に表現した。『ちょんまげ手まり歌』について執筆した小山明代氏は以下のように述べる。

上野が描いたのは、足を切られて「走る」ことを許されていない人々、つまりふつうに生きることさえ否定された人々である。彼らの死は「お花畑に入れる」と美しくカムフラージュされているが、国家の犠牲になって殺されたものであり、国家による暴力を隠蔽するものである。戦争の悲惨をくぐった上野が、国家による「美しい死」や「自己犠牲」に嫌悪感を抱いたところから、『ちょんまげ手まり歌』は生まれたとも言える。(本書31頁)
一見、美しく見える言葉で真実を覆い隠すやり方は、第二次世界大戦の戦没者を「お国のための尊い犠牲」と呼び、戦争責任の所在をうやむやにしたことに通じるものがある。『戦後児童文学論』で戦争責任にこだわった上野の姿が彷彿とする部分である。上野にとって「国家」とは合法的暴力を行使する機関である。そこを支配しているのは共同体の延命のために弱者を平気で犠牲にする論理なのである。上野がこの作品で暴こうとしたのは、こうした人々の犠牲を「国家」が正当化するからくりであろう。(本書25頁)
「やさしい藩」というディストピアを描くにあたって、上野の頭にあったのは過去から現代へ続く日本の歴史であり、さまざまな社会状況の中で苦しんできた人々の姿である。さらに現代に生きる作者自身をも取り巻き、追いつめている社会機構である。作者が「あとがき」で述べているように、たとえ侍が出てきても、これは過去の物語ではなく現代の物語なのである。(本書33頁)

 この物語に触れると、改めて過去を振り返り、戒めなければならないという思いに駆られると同時に、今を生きる私たちの目は、果たして世の中の真実を捉えているだろうかと不安になる。戦争が遠ざかる今を生きる私たちこそ、読む必要があると感じる。

『上野瞭を読む「ひげよ、さらば」の作家』(創元社)。装画 上野宏介
『上野瞭を読む「ひげよ、さらば」の作家』(創元社)。装画 上野宏介

家族や男女のありかたに疑問を投げかけた小説群

 上野は、国家という大きな枠組みだけでなく、家族のありかたや男女格差といった身近な問題にも鋭く切り込んだ。『日本宝島』(1976年、理論社)では、少年の姿に扮するおときという女性のキャラクターが以下のように発言している。この作品から半世紀近く経とうとする今も、このような声は巷から聞こえてくるように思うが、いかがだろうか。

犠牲になっているだけじゃないか。(中略)どうして女だけが、男や国の犠牲にならなければいけないんだ。(中略)今の世の中、女が損するようにできすぎてるぜ。(三五一)(本書68-69頁、『日本宝島』より)

 『アリスの穴の中で』(1989年、新潮社)では、二児の父親でもある主人公の壮介(50歳)が、男性にもかかわらず妊娠とするという斬新な設定で、出産や命についての問題を読者につきつける。老人病院で衰弱していく壮介の叔母、ゆきは命についてこう語る。

女はね、ずっと昔から子どもを産んできたの。(中略)女たちの産み落とした命を、ガスで奪い取るなんて、女の考えつくことだと思う?(本書164頁、『アリスの穴の中で』より)

 また『アリスの穴の中で』について執筆した藤井佳子氏は以下のように述べる。

上野が思い至ったように、男女における究極の不公平は女性だけが妊娠して出産することである。妊娠と出産は身体に負担であり、危険を孕む。順調な経過をたどって出産に漕ぎつけても、出産のために仕事を休まなければならない。出産を男女で分担することができれば、真の意味での男女平等が実現するだろう。ゆきが主張するように、産まない性が命を「壊すことに夢中」(三〇八)になることも、なくなるかもしれない。出産する性すなわち女性であり、女性だけが出産することは当然のことで、それに付随するさまざまな不便や不利益も仕方のないことであるという、一見、合理的かつ科学的思考に異を唱えるために、上野はこの作品を書いたのだろう。男性は出産を自分の問題として考えたことがあるのか、考えたことがなければ、なぜ考えてみようともしないのか。(本書164頁)

 ジェンダー格差の課題が依然として残る現代社会にも通ずる問いを、上野はこの頃早くもくすぶらせていたようだ。無論、ジェンダー格差は男性側のみに問題があるわけではない。しかし、女性の生きにくさが叫ばれる今の世の中に厳然として通ずるテーマであり、今こそ改めて読み返したい作品の一つだ。

写真提供 上野定子・上野宏介
写真提供 上野定子・上野宏介

「老い」に着目した作品

 上野は『三軒目のドラキュラ』(1993年、新潮社)の中で、吉元孝治郎という老人のキャラクターをとおして「老い」の問題を生々しく読者に投げかけたが、上野は老いについて、以下のように語っている。

「老年」に達していない人間は、おおむね「老人」を、社会的役割を終えた者、自分とは違った人種とどこかで考えがちである。(中略)シルバー・シートに囲い込み、ゲート・ボールに興じる世代と一方的に「掃き寄せている」(中略)わたしは、そうした固定観念を「ひっくり返す」ため、吉元孝治郎なる人物を物語の中で描いてみようと思った。(「晩年学フォーラム通信」第一号、一九九四年一二月)(本書179頁)

 この上野の思いは、物語の中で吉元孝治郎の口を借りて、世に訴えかけることとなった。これから老いを迎えつつある人、またはすでに老いを感じている人にとって、これらの言葉はどう響くだろうか。超高齢化社会まっただ中の日本において、この「老い」にまつわる叫びは、より深刻さを増していくかもしれない。

吉元は「皺しわの手は、皺しわの手しか握ってはならんという規則でもあるのかね」と問い、永瀬は「年齢を取るということは、それなりの分別を持つということでしょ」(二一七)と言い返す。しかし永瀬はすぐに「あなたの言葉に年甲斐もなくカッとしてしまったが、これはわたしが悪い。お詫びする」と述べ、吉元は「どうして年齢を取ったら、カッとしてはいかんのだ? 喧嘩をしちゃいかんのだ? そうやって一つずつ何かを捨てていくのだ?」(二一九)と言う。永瀬は吉元をまじまじと見つめる。(本書179頁、『三軒目のドラキュラ』より)
年齢を取るということは個性を失くすということか。嫌味や嫉妬や欲望や執着心が消え去るということか。(二二八)(本書180頁、『三軒目のドラキュラ』より)

 以上に見てきたように、上野は自身の人生を通して、国家、家族、性、老いなどが抱える暗部に目を向けつづけてきた。それは名もなき人々の声を掬い上げることでもあった。上野の創作活動は児童文学にとどまらず、やがて大人向けの小説へと発展し、最後は同志社女子大学で「晩年学フォーラム」という活動を始め、その機関誌を発行するに至る。生きるうえで避けられない問題に対峙し、それを表現することに執心した上野の作品は、今もなお新鮮さを失わずに、私たちに訴えかけつづけている。

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