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『旧国名でみる日本地図帳 お国アトラス』 駅伝競走は、なぜ「駅」伝なのか?

記事:平凡社

古くからあった「道の駅」

 自動車で地方旅をしているとき、「道の駅」で休憩や食事をしたことはないだろうか? この道の駅は、長く続く道路に「駅」を作り、そこで車旅の疲れを癒してもらうというアイディアが実現したもの。観光情報も充実し、その地方の特産物なども売っていて便利な施設だ。19924月に作られた鳥取県北栄町を皮切りに、「道の駅」は増え続け、今や1160もの「道の駅」が存在する(20196月調べ。道の駅第一号については諸説あり)。

 この「道の駅」は、鉄道の駅のイメージをうまく用いた、よいアイディアだと感じている方も多いと思うが、実は、鉄道が登場するはるか昔から「駅」は存在していた。それも道沿いに、だ。

 古く8世紀、律令制の時代には、すでに都と地方を結ぶ幹線道路が整備されていた。いわゆる「五畿七道」の「七道」で、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七つの街道を指している。これらの「道」はランクがあり、都があった畿内と太宰府を結んでいた山陽道がいちばん重要で、「大路」とされた。ほかに、東海道と東山道は「中路」、北陸道、山陰道、南海道、西海道は「小路」に分類された。

 七道は、以上のような街道を指すと同時に、沿道の国々も指していた。たとえば、大路の山陽道は、街道の名称であると同時に、街道沿いに分布している播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門の八つの国々も指していた。

「駅」から「宿」に

 この道路網に一定の間隔で設置された中継所が「駅」と呼ばれていた。駅には、宿泊施設や人馬が配置され、駅使と呼ばれる朝廷からの使者が駅に到着すると、次の駅まで乗り継ぎの馬を用意する仕組みが整っていた。これを「駅伝制」という。駅は、交通ネットワークの要だけではなく、いわば情報ネットワークの要でもあった。

 駅の数や位置については時代による変遷があるが、929年に定められた「延喜式」(律令の施行細則)には401もの駅が記録されている。

 鎌倉時代には、京都と鎌倉をつなぐ東海道に馬と食料を恒常的に供給することができる「宿駅」体制が構築された。

 室町期には、いったんこの幹線交通網は衰退するも、その後、戦国期にかけては大名によって領内の道路や駅制が整備された。しかし、その一方で、国境には関所が設けられるなど、人や物資の自由な交流は制限された。

 江戸時代になると政治の中心が東国に移り、江戸を中心とした交通網が整備された。幕府直轄の東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中の五街道が江戸日本橋から放射状に延び、それぞれの街道に宿(宿駅)が設けられた。

 この道路網は参勤交代にも使われたが、伊勢参りなどの流行もあって、広く庶民にも利用されるようになる。これにより、宿駅には旅籠、木賃宿、茶屋、商店などが建ち並ぶようになり、いわゆる宿場町として発展するところも増えた。

鉄道の駅こそが、道の駅のイメージを借りた新しいもの

 明治になると鉄道が整備されるようになった。すると、人々が歩いて長距離を移動することが減り、宿場町はじょじょに廃れ、鉄道旅客の乗り降りや貨物の積み降ろしをする場所が「駅」となった。つまり、道の駅が鉄道の駅の比喩なのではなく、鉄道の駅の方こそが、道の駅のイメージを借りた新しいものなのだ。

 選手たちがひたすら長い道のりを走る「駅伝」は、なぜ「駅」伝なのか、もうお分かりだろう。古く律令制の時代に馬をリレーして情報を伝えていた駅伝制こそが、現在の駅伝競走の原型だからだ。1917年に日本で初めて行われた駅伝は、「東海道五十三次関東関西対抗駅伝競走」と銘打たれた。

 この旧国地図は、とくに、街道と宿場を重視し、分かりやすく表示している。江戸時代にタイムスリップして東海道に沿って脳内旅行を楽しむもよし、時代小説や大河ドラマのお供にしてもよし、ぜひ1冊揃えていただきたい。

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