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『異教の隣人』 異教徒さんの信仰の現場にお邪魔してみた

記事:晶文社

『異教の隣人』(晶文社)
『異教の隣人』(晶文社)

「カイロス」の時間を延ばしてきた宗教

 神学者であり哲学者であるパウル・ティリッヒは、時間を「クロノス」と「カイロス」に分けて考察しています。ティリッヒの分類で言えば、クロノスは物理的・客観的な時間のことであり、カイロスは主観的・体験的な時間を指します。それを援用して、宗教的時間について考えてみましょう。

 現代人はかなりクロノスを有効活用しています。かつては数日かかった移動距離を、数十分で到達することができます。以前は何時間も必要だった計算を、瞬間で終わらせることもできるようになりました。日が暮れたらもう仕事ができなかった時代に比べれば、かなり一日を長く使うことができます。ですから、現代人はひと昔前よりもずっと時間があまってしかるべきなんですよね。でも、あきらかに現代人の方が忙しくなっている。時間に余裕がない。あらためて考えてみれば、おかしな話ではありませんか。これは主観的な時間であるカイロスが委縮しているからだと思います。いくら物理的な時間のクロノスの余剰があっても、カイロスが縮めば忙しくてイライラして、しんどくなってしまうのです。

 我々のカイロスの時間が委縮しているのは、委縮するような装置が増加する一方だからでしょう。短時間で対応したり回答したりするのが、より良いモデルとなっている社会ですから。瞬時にして広範囲に情報が行き渡り、それを常にキャッチアップしていかねばならない状況なのです。私たちは、この点をよく自覚して、時間を延ばす装置や技法に眼を向けねばならない時期を迎えています。どうすればカイロスを延ばすことができるか、それは現代人の大きなテーマなのです。

 実は、人類にとって最も良く「カイロスの時間を延ばす装置」は宗教儀礼です。宗教儀礼の歴史は、ほぼ現生人類としての歴史と重なります。人類ははるか古代から宗教儀礼を営んできました。宗教儀礼の場を創造することによって、人類は共同体を維持し、大きな存在に思いをはせ、個人を超える感性を育ててきたのです。私たちも、宗教儀礼の時間に心身を添わせることによって、委縮しがちなカイロスを少しだけ延ばせるに違いありません。そして、延びた時間の中で暮らすことで、向き合わざるを得ないさまざまな困難や苦難を引き受ける耐性が上がるのです。委縮した時間の中にいると、ささいなことでも辛抱できなくなってしまいます。

 日本で暮らす異教の隣人たちは、宗教儀礼の時空間に身をおくことで、暮らしの中の不合理な事態を引き受けているように見えます。だからこそ、多くの面倒な手続きや義務があっても、教会や寺院を運営しているのでしょう。

つながっているから生きていける

 東日本大震災の際、私たちは地域コミュニティーがいかに大切であるかを痛感しました。ちょうど「無縁社会」などといった言葉が流布し始め、小さなコミュニティーを再構築しようとする動きが注目されている最中でした。もともと、日本の地域コミュティーは「お寺」や「神社」を核として構築されてきました。でも、そのカタチは都市部を中心に大きく変化しています。これからどんなモデルに可能性があるのか。それに宗教がどんな役割を果たすのか、そのあたりは私自身とても関心をもっています。

  なにしろお寺の住職は心から地域コミュニティーを守りたいと思っていますからね。ヘタすると地域の誰よりも、行政の誰よりも、地域コミュニティーの存続を願っているかもしれません。だって、引っ越しできないんですから。

 たとえば、お寺を中心としたコミュニティーを考えてみても、ずいぶん事情が違います。地域性や習俗などの相違もあります。私が住職をしている如来寺は「ムラ」という形態が色濃く残った農村型です。ご近所はほとんどが檀家さんです。

 一方の都市型はどうか。ムラ型コミュニティーは良いところも多いのですが、煩わしさもあります。そういったムラ型コミュニティーの濃密な関係性が嫌で都市部へと移動した人も少なくないでしょう。なによりムラでは就職できる仕事が限られています。都市では地域コミュニティーの煩わしさを避けることができ、仕事もあります。でも、あまりに関係性が希薄になってくると、それはそれで具合が悪くなる……。そこで今度は都市型の小さなコミュニティーを生み出さねばならないわけです。だから、都市のお寺を拠点にしたコミュニティーを観察してみると、ムラ型とは異なるつながりを確認することができます。

 いずれにしても、私の関心は「宗教性があるコミュニティー」「儀礼性の高い集いの場」です。ここが人間にとって最も重要なポイントだと考えているからです。なにしろ、「結びつける」「つなげる」は宗教の本質のひとつです。宗教は、神と人、人と人、個人と共同体を結びつけることに高い能力をもっているのです。

 私たちは、「何ものにもつながっていない」と感じる事態に追い込まれると、生きていくのはとても過酷になります。逆に言えば、かなり過酷な状況におかれても、「つながっている」と実感できれば、何とか生き抜ける時もあるということです。

(釈徹宗+毎日新聞「異教の隣人」取材班『異教の隣人』より抜粋)

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