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戸田山和久『教養の書』を読む 教養へのストレンジラヴ

記事:筑摩書房

 本書は、筑摩書房のPR誌「ちくま」に2017年から18年まで連載された原稿に、大幅加筆したものである。初出時のシリーズタイトルは「とびだせ教養」、続編は「ひっこめ教養」で、私はこのタイトルが気に入っていた。というのも、これは少年ならぬトダヤマ中年が、教養とは何かを探り(とびだせ!)、そしてそれに疑念を抱き(ひっこめ!)、最後に教養人の生き方を「自己のテクノロジー(魂への配慮)」として示す物語だからだ。そう、これは「教養のビルドゥングスロマン」、つまりゲーテ顔負けの「教養についての教養小説」なのだ。

 本書で最も目を引くのは「書物」の重要性だ。トダヤマは監視社会の古典的ディストピア『華氏451』『一九八四年』、そしてクソ映画『デイアフタートゥモロー』を引き、書物が焼かれ、ことばが切り詰められる世界の脅威を描く(「切り詰め」とは、類似のことばを一つにまとめてしまい、表現の多様性を奪って空想や抽象を消滅させる試みのこと)。図書館の蔵書の一冊だけを残すとしたら? 自分が焼かれる本の代わりになって一冊だけ暗記するとしたら? 私はどれを選べばいいのだろう。

 オーウェルやブラッドベリの古き世界が、ウイグル人の再教育施設や国家ぐるみのサイバー監視によって21世紀に俄然リアリティを回復しているのは恐ろしい。先端監視社会とは、無教養を強制する社会なのかもしれない。他方で、書店の「話題の本」コーナーを占拠するしょーもない新書や差別本の隊列には、これとは違った恐怖を覚える。先日、大木毅『独ソ戦』(岩波新書)を買いにいった本屋で、隣に「「人工知能2.0」前夜、覚醒せよ。」と書かれた著者のドヤ顔のカバーの本が置いてあって戦慄した。2.0前夜って日本語なんですかとツッコまざるをえない。『独ソ戦』の帯には赤文字で「地獄だ」と書かれており、まさに地獄だなこりゃと頷いた。本が焼かれることも怖いが、粗悪な本や濫造記事が溢れかえる社会にも恐怖を覚える。

 なぜ教養には(よい)書物が大切なのか。それは、仲間とつるむのではなくひとりになるため、ひとりで過去の人々と対話し、そこから再度向きを変え、同時代にありうる共同性を展望するためだ。そのときの対話相手は簡単には噛み砕けない本でなくちゃいけない。『キル・ビル』のベアトリクスの修行のように。

 知の悦びは、できそうにないことを試してみたくなり、苦労してやっとたどり着いたらそこに何もなかったりすることのうちにある。それが手段ではなく目的としての教養ってやつだ。私は頭を使いすぎると頭皮がベトベトになる習性があるのだが、それを何日も経て、やっぱりわからないんだと思ったとき妙に納得する。目に見える成果なんてたいがい怪しい。たとえばフーコーがベンサムをどう評価したのか、長いことあれこれ考えたがいまだにわからない。難題を解決しようと、田中陽希のグレートトラバースのごとく道なき道を登るのだが、この山には頂上がない。ゼーゼー言いながら登っていると、途中急に視界がひらけて平坦な場所に出る。そこで一休みして、「今はこれ以上無理」となる。でもいつの日か何かの拍子に新しいつながりやアイデアが閃いて、そこからまた考えはじめるというわけだ。

 これは多分、成果を出すことが目的の「研究」ではなくて、探求することそのものが生きる喜びとなる「教養の道」を進んでいるということだろう。だからやっぱり教養とは、自分の魂に配慮すると同時にその公共的役割を自覚し、ついでに秀逸なアホ映画の中にも意味を見出して映画文化を救おうとする。きっとそういうことなんだ。

 それにしても、Win-Winという能天気なことばの裏に「誰かが二人分負けている」ことを読み取るとは、実に鮮やかな視点の転換だ。こういう外部の視点をつねに持っていたい。そのためには、心地よい見慣れた世界の外部を、どこかに開いた「窓」から、あるいは地面に掘った穴から、天井の裂け目から、凝視することが必要だ。そして今度は思い切って外に出て、そこから内部を見返してみる。そうすれば気づくだろう。私が見慣れた世界は狭く息苦しく、教養の海がはるか彼方へと続いていることに。

(「ちくま」2020年3月号より)

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