天皇生前退位の本意を推理する 半藤一利『歴史に「何を」学ぶのか』より
記事:筑摩書房
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今上天皇の、生前退位のご意向表明の話をいたします。
以下は、わたくしの推理です。
光格天皇が近代日本における天皇像の祖型をつくったとすれば、今上天皇は自分は平和国家日本における「象徴」としての天皇の在り方を、即位して以来ずっと模索してきた。ただ存在するだけではなく、「日本国民統合の象徴」としてどのように行動し、どう振る舞うのか、そして何を語るべきか。憲法や皇室典範から逸脱しない範囲の中で、ご自分で考えぬいて、一つひとつ積み上げてきた。そして国民に敬まれ親しまれる象徴天皇像をつくりあげてきた。そして、このかたちを残したい。それを皇太子と皇太子妃にしっかり受け継いでもらいたい。それが生前退位の意思を示された本意、本質なのではないか。
29年におよぶ平成の御世を振り返ってみると、天皇が日本国憲法に沿いながらも、時代にふさわしい新しい天皇像をつくろうとする努力の跡がつぶさに見てとれます。国務をきちんと行いながら、そのいっぽうで被災地の慰問や太平洋戦争激戦地への慰霊の旅といった新しい公務は、昭和天皇の時代よりも広く、かつ数多く行われて来ました。とりわけ太平洋戦争の激戦地への訪問は、陛下ご自身による強いご希望で行われているように思います。
平成28年(2016)1月のフィリピンご訪問に関して、河相周夫侍従長が「文藝春秋」に寄稿した随行記(2016年5月号)には、かなり明確に、そのことをうかがわせるくだりがありました。それによると、前年の六月頃に「フィリピン訪問を検討して欲しい」とのご指示があり検討を始めたが、なかなか時期が決まらなかったそうです。すると陛下から、「フィリピン訪問の件はどうなっているかと御下問があり、現状を報告した。これを聞かれた両陛下は、それであれば一月下旬に訪問しようと直ちに決断された」というのです。けっして頼まれてやっているわけではないということを、明確に伝えるエピソードでした。
サイパン島で皇后陛下ともども、在留邦人が多く身を投げた断崖に向かって祈るかのように礼をする姿、ペリリュー島で海の向こうの島々に向かって深々と頭を下げておられる姿は、目に焼きついています。あれこそご自身の中でお考えになった「新しい天皇像」であり、「象徴とは何か」という問いへの答えのようにわたくしには思えるのです。
今上天皇は、象徴とは何かということを本気になって考えただけでなく、自分が生きているあいだは断固として平和を守り通すのだという、強い意志をもってここまで来られたように思います。なぜそう思うか。その理由をお話しします。
戦争に負けた年の九月四日。昭和天皇が国民に向けて所感を発表しました。これを勅語といいます。当時わたくしは中学の四年生になっていたのですが、おやじからこれをよく読んでおけと言われましてね。読みました。まだ子どもですけど、それでもこれに感心したのです。
長いのですが、一部、いいところを紹介します。
「朕は終戦に伴う幾多の艱苦を克服し、国体の精華を発揮して、信義を世界に布き、平和国家を確立して、人類の文化に寄与せんことをこいねがい、日夜軫念(しんねん)措かず、この大業を成就せんと欲せば」
要するに、戦争によってもたらされた多くの苦しみを克服し、この国が平和国家となるように、そして文化に貢献するために自分はがんばります、という意思表明です。15歳のわたくしは、これからの天皇はほんとうにそうあって欲しいものだと、思いました。
皇太子だった11歳の明仁天皇は、終戦のときには疎開先の日光にいました。しかし皇太子は戦争が終わっても、しばらく東京に帰って来ることができなかった。なぜならその身の上が危なかったからです。
敗戦が決まってもなお、徹底抗戦派の軍人たちのなかには、昭和天皇を排除してかわりに皇太子を担ぎ、戦争をつづけようとした者たちがいました。事の詳細はわかりません。しかし終戦後も宇都宮連隊がしばらく日光を守っていたのは、そういう空気が確かにあったからなのです。
たとえば、その一つとして敗戦の前年、昭和19年末に九州で編成された第343海軍航空隊にまつわるエピソードを紹介しておきます。
この隊は、本土防衛の航空隊として最後まで活躍した戦闘機部隊でした。ひきいたのが源田実元大佐。海軍の航空畑の要職を歴任した有名な戦闘機乗りです。真珠湾奇襲攻撃の原案作成に参画したことでも知られています。
源田は玉音放送の2日後に、軍令部のさる幹部から極秘裏にある作戦を命じられるのです。それはもし敗戦によって天皇制に危機が迫るような事態が生じたなら、皇族を拉致してでもその方を大元帥陛下として戦を続行せよ、という命令でした。源田が航空隊の志願者に血判を押させたかどうかは知りませんが、戦闘機乗りの猛者たちはみなその作戦に生涯をかけると盟約を結んだといいます。作戦を終結して解散したのは、なんと昭和56年(1981)のこと。この盟約は戦後36年ものあいだ生きていたのです。
当時編集者だったわたくしは、その解散式が執り行われることを、当時参議院議員になっていた源田本人から聞きまして、「わたくしも列席させてくれませんか」と頼んだのですが、「ダメダメ、部外者はダメ」と拒否されてしまいました。まあ、こんな連中はほかにも沢山いたに違いない。
継宮明仁皇太子が東京に帰って来ることができたのは、昭和20年(1945)11月になって世情が落ち着きをみせたころでした。原宿駅に降り立ったときに目にしたのは一面の焼野原でしたから、たいへんなショックを受けられたことと思います。戦争をしてはならない、平和国家をつくらなくてはならない、という強い思いはあのとき沸き起こったのであろうと思います。
そして9月4日の昭和天皇の勅語には、皇太子も感銘を受けて、これを拳拳服膺(けんけんふくよう)したのではないでしょうか。たぶんそうに違いありません。なぜなら翌年、昭和21年の書き初めで、皇太子が書いた言葉は「平和国家建設」。そう、9月4日の勅語にあった言葉でした。
終戦から50年目にあたる平成7年(1995)の8月3日、天皇は墨田区の東京都慰霊堂におもむいて、昭和20年3月10日の、東京大空襲の犠牲者に献花されました。その折に述べられた言葉を紹介します。
「燃え盛る火に追われ、命を失った幾多の人びとのことをわたくしどもは決して忘れることなく、多くの人びとの犠牲のうえに築かれた今日の平和を思い、平和を希求し続けていかなくてはなりません」
ここにもわたくしは、憲法の第一条に定める「国民統合の象徴」としての在り方と、第九条の「戦争放棄」とをつなげる強い意志を感じます。そのお姿を見て、深い感銘を受けました。なぜならわたくし自身がこの東京大空襲の真下を逃げまどい、あやうく命を失いかけていたからです。その体験と開戦から終戦までのことを、『15歳の東京大空襲』(ちくまプリマー新書)にくわしく書きましたので、興味のある方にはぜひお読みいただきたい。