アメリカの崇高なる根本原理 『トマス・ジェファソン 権力の技法(上・下)』
記事:白水社
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むろん、この崇高な理念にも副産物があることに我々は注意すべきである。共和主義の「徳」も時間による劣化を避けることが難しく、その多数者志向は大衆迎合主義(「ポピュリズム」)に堕する危険性が常に付きまとう。要するに、ジェファソンの思想は商業的北部に対する南部農本主義の偏狭性を正当化する可能性があるし、実際にそうであってきたということだ。彼からジャクソン、(反「進化論」で有名な)ウィリアム・ジェニングス・ブライアンを経て現大統領ドナルド・トランプに至るポピュリストの系譜は共和主義の伝統が今も枯れることなくアメリカに流れ続けていることを如実に示している。政権獲得によってエリート官僚を解雇する「猟官制spoils system」を最も大々的に実施したのはジェファソンとジャクソンである(念のために繰り返しておくと、共和主義は官僚制に否定的である)し、そうするにあたってジャクソンは「東部の金融エリートから大衆のもとへと主権を取り戻す」とさえ主張したが、我々はトランプ大統領の選挙戦の最中にこれと同趣旨の発言を幾度となく耳にしたはずである。
猟官制よりもさらに有名な共和主義の伝統を挙げておくと、ヨーロッパ諸国による南北アメリカ大陸への不干渉を求めた「モンロー主義」がある。そして、第四十二章で示した通り、ジェイムズ・モンローのこの宣言は彼へのジェファソンの手紙の内容と一致している。
我々の第一根本原理はヨーロッパの争いに決して巻き込まれないことだ。我々の第二根本原理はヨーロッパが大西洋を越えたアメリカ大陸の事柄に干渉しないようにすることだ。南北両アメリカはヨーロッパとは異なる利害、特に自分たち自身の利害を有しているからだ。 (下巻三〇一ページ)
ここではっきり示されているように、ジェファソンにとって、アメリカ独立という共和主義的革命の大原則は「アメリカにヨーロッパの戦争を持ち込ませない」ことであった。したがって、トランプ大統領の「アメリカ・ファースト」なる孤立政策は新奇なものをどこからともなく持ち出してきたのではなく、アメリカの原理原則に立ち返っただけのことなのである。
このように、共和主義という概念に注目することなくして、以下のようなアメリカの諸特徴は絶対に理解不可能である。連邦に対する州の優越、正規軍よりも民兵を重んじる伝統、銃規制に対する根強い反発。最近私にとって最も衝撃的だった事件は二〇一七年八月中旬にヴァージニア大学のお膝元シャーロッツヴィルで起きた右派民兵組織のデモ行進である。この事件では、奴隷制南部の象徴と言うべきロバート・リー将軍像の撤去を巡って、白人種至上主義団体が抗議活動を行った。当然、民兵重視の共和主義のロジックはこういう「暴徒による支配mob rule」を排除できないのだ。
そして、この支配を防止するために「一者」の復活を目指したのがアレクサンダー・ハミルトン率いる連邦党である。言うまでもなく、連邦党の目標はイギリス路線を継続し、国王の権威のもと官僚制と常備軍による強力な中央集権制を打ち立てることであった。むろん、この連邦主義のもとでは、商業という金銭取引は大いに推奨される。
現代の日本人の観点からすれば、ジェファソンの共和主義ではなくハミルトンの連邦主義が「アメリカ」を現在のアメリカ、世界一の経済大国たらしめたように見えるだろうが、事実はそれほど単純ではないことはここまで説明してきた通りである。そもそも、イギリスに追随する連邦主義がアメリカ発展の正解ルートだったとすれば、なぜ現在のアメリカが宗主国イギリスをはるかに上回る世界一の超大国であるのかが説明できないだろう。単なる追随であっても理想のモデルに追いつくことはできるかもしれないが、追い越すことは原理的に不可能である。そういう意味では、十八世紀後半の世界最強国であるイギリスに背を向ける共和主義にイギリスの近代性を超克する妙薬が隠されていたと解釈するのが正しいのではないかと思う。月並みな言い方になってしまうが、この妙薬と連邦主義のせめぎ合いこそが「アメリカ」を作り上げてきたのだ。
【「訳者あとがき──あるいはアメリカの曖昧性」より】
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