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経済学は、つながりから社会を読み解く 『市場って何だろう』より

記事:筑摩書房

original image: Hunta / stock.adobe.com
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人はひとりでは生きられない

 人はひとりでは生きられない。例えば自分は一匹狼だと思っている人でも、あるいは引きこもりがちの人でも、何かを食べて生きている。その食べ物のほとんどは、いろいろな人が作り、運んだものだ。自給自足を標榜する人ですら、ひとりで家を建て、鍬や鋤を作った人はまずいないであろう。私たちは他の人と関わりあいながら生きているのである。

 もちろん、そのなかには親と子どもの縁のように切っても切れない関わりあいもあるし、会社の同僚といったもう少し緩いものもあるであろう。いずれも顔の見えるつながりである。

 逆に顔の見えないつながりもある。現代社会では、私たちは市場を通じて世界中の人とつながっている。あなたが買った靴に使われているゴムはインドネシアで採れたものかもしれない。そのゴムを採集した人はそれとは知らずにあなたとつながっているわけだ。そのゴムを使い作られた靴は米国でも売られ、大統領も履いているかもしれない。

 顔の見える関係から顔の見えない関係まで、様々なつながりを読み解く学問こそ、経済学だ。つながり方には様々なものがある。力ずくで相手から奪う社会、それを防ぎつつ、顔の見えるつながりを中心に据える社会、そして顔の見えないつながりが中心となる社会。それぞれの社会を童話も用いながら見ていこう。

さるかに合戦──力ずくで奪う社会

 日本人で「さるかに合戦」を知らない人は少ないだろう。おむすびを持っていたカニが、猿と交換したのは柿の種(せんべいではない)。畑にまいて一生懸命に水をやり、ようやく柿の実がなる。柿が取れないカニは猿に柿を取ってもらおうとするが、猿は自分だけ食べた後、カニに熟していない柿を投げつけて殺してしまう。

 泡を吹いて倒れたカニからぞろぞろと出てきた子どもたちは親のあだ討ちに立ち上がり、途中、栗、蜂、石臼、牛糞といった助っ人を得て、猿の家に向かう。そして、首尾よく猿を退治してしまうのだ。

 十七世紀の哲学者トマス・ホッブズは『リヴァイアサン』で、自然状態においては、人間は万人に対する闘争を繰り広げると述べ、秩序維持のための王権強化の必要性を説いた。自然状態では、協力関係の構築も難しいため、正に弱肉強食の地獄絵が立ち現れる。目の前に食べ物があったら、早い者勝ちだし、強ければ猿のように他人の物を奪ってもかまわない。

 このような状態では、善も悪もない。そこには、ただ強い者と弱い者、勝者と敗者がいるだけである。

 自然状態では、強い者は、弱い者に努力させておいて、その果実を猿のように横取りするのが一番得をする。種をまいて実がなるのを待ってなどといったカニのような悠長さでは、実がなったころに横取りされてしまう。誰も他人に横取りされるモノを努力して育てようとしなくなるため、社会の生産性は低い水準にとどまってしまう。

 それにしても、猿は浅知恵だった。もしかしたら『リヴァイアサン』の「万人の万人に対する闘争」のくだりだけ勉強して育ったのかもしれない。あだ討ちされてしまうくらいなら、あのような強欲なことはせずに、カニから少しだけ分け前をもらうことで満足すべきであった。

 一方でホッブズも、「さるかに合戦」を読んでいたら、王権の強化だけが唯一の答えでないことに気づいたかもしれない。「さるかに合戦」、恐るべし。

顔の見えるつながり──共同体

 ホッブズは、国家秩序が乱れる時代に生きたため、秩序のない社会を透視しつつ、秩序の重要性を訴えた。「自然状態」が歴史的に存在したか否かはともかく、自然状態に耐えられない人々は、国家よりもまず協力し合う集団──共同体を形成する。共同体では、協力してモノを作り分かち合うと同時に、相手にとって有用なモノを与え、相手からは自分にとって有用なモノをもらう。

 共同体の本質は、一定の集団の人間が毎日顔を合わせるところにある。今日限りの関係であれば、得られた食べ物を自分だけの物にしてしまってもそれっきりだが明日も顔を合わせるとなれば、話が変わる。今日横取りをすれば、明日はしっぺ返しを食らうから、つき合いはあくまでも互恵的──つまり、お互いさまでなくてはならない。近年に至るまで、何を誰にもらって何をあげたかを克明に記録していた庄屋があったというが、お互いさまの取引には、そのような記録や記憶が欠かせない。

 お互いさまの取引のルールを破る者には、秩序を維持するために、共同体ぐるみで罰を与えることもある。「さるかに合戦」では、ルールを破った猿はカニの子どもたちだけでなく、栗や蜂、石臼、そして牛糞によっても罰せられるのである。

 共同体の中では、信頼と協調の関係が支配的でも、共同体から一歩外へ出れば、見知らぬ者同士の弱肉強食の関係が待ち受けていた。強い共同体が弱い共同体を傘下にしながら、共同体は次第に大きくなっていく。

 それでも、共同体がお互いに顔見知りの小さな共同体の複合体であるうちは、互いによそ者を排除することで、仲間はずれにされた者は行くところもなく、大きな不利益を被る。また、共同体では大した理由もなく、偉そうな顔をしている人間が跋扈する。「あの人に逆らうと大変だぞ」とみんなが思っていると、実力がなくともみんながそう思っているという理由だけでのさばる輩がいるのである。

 しかし、共同体がさらに大きくなって、もうお互いの顔も分からないくらいになると、秩序を維持しようとしても、これまでの罰し方では難しくなってくる。顔見知りがいないところへ逃げてしまえばよいからである。

 共同体からの脱皮は都市の誕生とともに始まる。

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