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日本の近代化の鍵は「法」にあった 『法学の誕生』より

記事:筑摩書房

original image:zolnierek / stock.adobe.com
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タウンゼント・ハリス

 明治維新の10年余り前、1857(安政4)年11月6日、当時九段坂下にあった蕃書調所で、幕府の5人の外交担当者、土岐頼旨、川路聖謨、鵜殿長鋭、井上清直、永井尚志が、アメリカの使節タウンゼント・ハリスと面談していた。ちなみに、永井尚志は三島由紀夫の高祖父にあたる。蕃書調所は、前年の1856年に洋学の研究・教育およびその統制の機関として幕府が設立した組織である。それまで幕府の教学機関は、儒学を対象とする昌平坂学問所だったが、もはや洋学摂取の必要性を無視できなくなっていた。今日で言えば研究所のような組織だが、ここがハリスの江戸滞在中の宿所にあてられた。寝室や居間のほか専用の手洗所や湯殿も作られ、寝室には寝台も用意された。

 ハリスは、アメリカ合衆国の初代駐日領事である。1853(嘉永6)年にペリーの率いる黒船が来航し、翌年、再度来航したペリーとの間で、日米和親条約が横浜で締結された。その第11条に、米国が下田に領事を置くことができる旨が規定されていた。ハリスは東アジアで貿易業に従事していたが、この規定を知り、猟官運動のすえ初代の駐日領事の地位を射止めた。そこで、1856(安政3)年に来日して、通商条約を締結するための交渉を始めたのである。

 翌1857年7月、ハリスが下田上陸以来求めていた江戸上府がようやく許された。彼は10月に江戸城に入り、第13代将軍家定に謁して大統領ピアースの親書を渡した。また老中首座の堀田正睦邸に赴いて、世界の情勢を語り、アメリカと通商条約を締結することがいかに日本にとって利益になるかを雄弁に説いた。ハリスの演説は2時間を超え、堀田はじめ海防掛の面々は感銘を受けたという。ハリスは条約の主たる内容として、第一に、公使を首都に駐在させること、第二に、開港と通商の自由を要求した。そこで、堀田が部下に命じて、通商条約の前提となる外交上の問題や手続について、種々質問をさせたのである。

 幕府方がまず尋ねる。

 「ミニストル(公使)ヲ都下ニ置候儀ハ和親之国ハ相互ニ置候哉」。

 和親関係を結んでいる国々はみな互いに公使を置いているのか、という問いである。さらに、ミニストルの職務、またコンシュル(領事)との違いは何か、ミニストルの官職や爵位はどうなっているか、等々を尋ねる。そして、肝心の問題に入り、

 「ミニストルヲ置候方ニテハ各国如何ノ取扱振ニ可有之候哉」

 と問うた。公使を置いた場合の取り扱いぶり、つまりその法的地位を尋ねているわけで、これ自体、きわめて法的な問いである。この問いに対してハリスは、「万国普通之法ニ従イ取扱申候」と応じた。ここではじめて幕府側は、万国一般に妥当する法という観念に接したが、理解できない。そこで幕府側はさらに問う。

 「万国之法ト申候ハ如何様之義ニ候哉」(万国の法というのはいったいどういう意味でしょうか)。

万国普通之法

 政治学者吉野作造の著名な論文「わが国近代史における政治意識の発生」は、これが日本人が「万国公法」の観念を明確に吹き込まれた最初の場面だという。日本人の西洋法との接触としては、すでに天保年間に老中水野忠邦のもとでオランダ憲法、刑法、刑事訴訟法、民事訴訟法などの翻訳事業が存在していたというが、限定的な作業であり、かつ衆目に触れることもなかった。今日につながる西洋法との接触は、この万国公法(ここでは「万国普通之法」と表現されている)が最初だった。万国公法とは、今日の言葉で言えば国際法であるが、このときから万国公法は西洋法を象徴する観念となった。

 前記の問いに対するハリスの答えは、公使の駐在国における権利に関する国際法規の説明だった。しかし、この問答を通じて、幕府の役人は、国と国との外交が裸の力関係ではないらしいこと、外交上の問題にはことあるごとに「万国普通之法」なるものがつきまとうことを悟る。「万国普通之法」は、のちに述べるような経緯でその後「万国公法」と呼ばれるようになったが、ともかく、これに関する知識なしには西洋との駆け引きができないことが分かったのである。

 こうして、万国公法への関心は、西洋世界がどのような秩序によって構成されているのかという問題意識を生み出し、それは西洋世界とはどのような世界なのかという問いと直結することとなった。これ以後、西洋世界を知る鍵、つまり日本を近代化する鍵が、西洋の法と法学を知ることだという時代が続くことになる。

西洋法学の理解

 むろん、アジアにも法は存在した。たとえば中国には、古来、法があり、法による統治を重視する法家という学派も存在した。日本にも、唐の律令制にならった大宝律令以来の律令があり、律令制が導入されてから数えると千年以上の「法」の歴史がある。武家政権のもとでは諸法度をはじめとする法が存在した。

 しかし、法学という概念はなかった。なにゆえに法に拘束力があるのか、法と道徳はどう違うのか、法規範はバラバラの規範の集合なのか、それとも内在的な構造を持っているのか、裁判の手続はいかにあるべきか、等々を問う学問は成立しなかった。法はあっても(西洋的な意味での)法学は存在せず、したがって、法学者という専門家階層の確立をみることもなかったのである。

 学問としての法学は、西洋文化に固有であり、ギリシア・ローマの文明に深くその根を張っている。とりわけ古代ローマで法学は高度の発達を見た。ヨーロッパの法学の歴史について、いつを起点とするかは難しい問題であるが、古代ローマで最初の成文法とされる十二表法の制定が紀元前450年頃とされており、仮にそのあたりから数えたとしても、法学には優に2500年の歴史がある。ヨーロッパ諸国の法学はその遺産の上に成り立っている。

 また、中世以降は世俗法といえどもキリスト教の影響が深く及び、キリスト教の理解なしには十分理解することができなくなっていった。さらに、17世紀ころから登場する近代の法学は、ヨーロッパの啓蒙主義の流れと切り離しては理解できない。19世紀の法学は、これらの歴史の流れの中で生み出されたものである。しかも、同じヨーロッパでも、例えばイギリス、フランス、ドイツにはそれぞれ固有の歴史的伝統を持った法学が成立していた。このように、法学という学問は、ヨーロッパ社会の歴史的あり方と深く結びついている。この点が、特定の社会のあり方から切り離された普遍性をもつ自然科学との大きな違いである。

 こうして、西洋法学との最初の接触を経験した先人は、西洋の法学を学ぶためには西洋の歴史と文化の理解が要求されることを実感した。西周や津田真道といった幕末の最優秀の人材をもってしても、西洋法学の基本概念がようやく理解できた程度である。本格的な西洋法学の受容のためには、そのための人材養成が不可欠だった。すなわち、西洋法学を深く理解して自家薬籠中のものとし、西洋人と対等の水準で、自ら法学研究に従事できるような、日本の法学者を養成することが必要だったのである──。

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