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動物にも顔はあるか 『対面的』より

記事:筑摩書房

original image:vvvita / stock.adobe.com
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 人間以外の動物にも顔といえるものがあるのだろうか。顔を単なる身体部位(人間なら「顔にあたる」と考えられる部位)としてではなく、いま述べた精神性や社会性や倫理性を帯びた領域として捉えるとき、動物にも顔があるということはけっして自明のことではない。われわれはふつうに犬の「顔」や猫の「顔」を話題にするし、ときには彼らの「表情」にまで言及するが、よく考えればその根拠は定かではない。そこに眼(のようなもの)があり、鼻(のようなもの)があり、口(のようなもの)があるという生理学的事実と、それをベースとしたナイーヴな擬人化が、この仮定を支えるすべてであるようにすら思われる。もちろん問題となる動物がヒトに近いかどうかにもよるだろう。ミミズの「顔」といってもピンとこないが、サルやチンパンジーの「表情」となるとがぜんリアリティーは増すからである。ヒューマン/ノンヒューマンという区分は、この点では(この点でも?)明らかに粗い。

 動物にも顔はあるかというこの問題は、いわゆる動物論(あるいは動物哲学)の議論でよく取り上げられるトピックのひとつである。「人間中心主義的(anthropocentric)」とされる伝統的な西洋の思想家たち──デカルトからハイデガーまで、ととりあえずは言っておこう──は、このタームで問いを立てたわけではないが、彼らがこれに否定的に答えたであろうことは容易に推測される。一方、動物の権利や「解放」を説く論者たちの答えが肯定に傾くであろうこともまた想像に難くない。

 ジャック・デリダは、レヴィナスですら──デカルトやカントの理性主義からあれほど距離をとり、顔(「裸」の顔)の倫理性にあれほどこだわったレヴィナスですら──動物に顔があるとは認めなかったと言う。レヴィナスはじつは動物についてはほとんど論じていないのだが、デリダに言わせればこの沈黙じたい示唆的である。レヴィナスのいう「顔」はあくまで人間の「顔」なのである。

 私の知るかぎり、レヴィナスが、動物のまなざしを、彼があんなに多くの見事な、心を打つ分析を捧げたあの裸の、傷つきやすい顔のまなざしとして語ったことは一度もない。〔彼にとって〕動物は顔をもたない。私を見つめる裸の顔、それを前にしては眼の色がどんなだったかも忘れてしまうというあの裸の顔をもたない。レヴィナスがあれほど頻繁に用いた「裸」という言葉──彼にとって、他者の顔、皮膚、傷つきやすさ、私の他者との関係、「私はここにいる」と言うときの私の他者にたいする責任、それらを記述するのにあれほど不可欠だったこの言葉──が、性差における裸にかかわるものであったことは一度もないし、私の動物にたいする関係の領域で現れたことも一度もない。動物は、顔も、皮膚すらも、レヴィナスがこれらの語に与えることを教えてくれた意味においてはもたないのである。

 デリダにとって、動物に顔があるかという問いは、それ以上に重要な、動物は返答するかという問いとつながっている。先述したように、返答(response)は責任(responsibility)という倫理的問題を呼びこむのである。一般に、動物は問いに返答することはできない、刺激に反応(reaction)するだけだと考えられている。返答するのは人間だけだと。こうした考えの背景には、いうまでもなく、人間のみが言語を、つまりは理性をもっているという、人間を動物から区別する最大の根拠とされてきた事実がある。デリダは、この「動物は返答しない」という考えを疑問に付す。そもそも返答するとはどういうことか、返答と反応はそれほど截然と区別できるのか、云々。そして、動物による返答の契機を、動物が人間に向けるまなざしのうちに探ろうとする。

 デリダは、一種の原体験として、飼猫に裸の自分を見られるという経験を語っている。デリダの猫は浴室で裸の主人をじっと見つめることがあるらしい。むろん(考えてみたら)猫も裸である。というか何も着ていない。デリダの猫は主人の性器にまで視線を向けるらしい。そのときデリダは恥ずかしいという気持ちを抑えられない。恥ずかしがっていることじたいを恥ずかしいとも感じる。デリダはこれを動物に「見られる」経験として、それにきわめて大きな意味を賦与している。「動物がわれわれを見る。われわれは動物の前で裸である。そしておそらく思考はそこから始まる」。「おそらく」と断ってはいるものの、思考(考えること)そのものがそこから始まるとは穏やかではない。

 デリダの見るところ、歴代の思想家たちがこの動物に「見られる」という経験に思いいたることはついぞなかった。「デカルトと同様、カント、ハイデガー、レヴィナス、ラカンは、彼ら自身が観察し、また話題にもする動物によって自分の方が見られるという可能性にはけっして言及しなかった」。つまり彼らは(本来的な意味では)思考しなかった、とデリダは言いたげである。これはデリダ的にはけっして法外な言い草ではない。彼にとっては、西洋のロゴス中心主義の根幹にその動物観──というより「主体」の地位からの動物の排除──があるからである。デカルトの「コギト」も、カントのいう「私」あるいは「人格(Person)」も、ハイデガーの「現存在」も、ラカンのいう「主体」も、いわば動物なき思考の産物である。ところが、彼らは動物についてしか語っていないのだ。つまり否認(デネガシオン)あるいは排除という形で。デリダの動物論に賭けられていたものの大きさがうかがえようというものだ。

 デリダは動物に「見られる」経験を語ることで、人間と動物の対面を視野に入れようとしていたのだろうか。「対面(face à face)」に類する表現の多用やレヴィナスの「眼の色」への言及にもかかわらず、どうもそうは思えない。少なくとも私のいうような意味での対面が、<見つめ合い>が、ここで問題にされているわけではなさそうである。しかし、人間との見つめ合いは、動物にとって、人間をインテンシヴに同じ生きものとして見ているひょっとしたら唯一の瞬間なのではないだろうか。いや、動物はこのとき「見ている」(だけな)のか。

 それにしても、デリダのペニスを眺める猫も猫だが、そうされて恥ずかしいと思うデリダもデリダである。猫がどんな「興味」から、どんな「動機」から、主人の性器を「見る」というのだろう(それは「たんに見るため」、「見てみるため=ためしに(pour voir)」だとデリダは繰りかえし言うが、それならなおさら恥ずかしがる理由は分からない)。そんなふうに言うのであれば、デリダはむしろ、ふだんは性器に目を遣ったりしない自分の猫の「気づかい」に、「デリカシー」に感謝すべきだったのではなかろうか。

 私の犬は、私の性器に目を遣ったことは一度もないが、そのにおいを嗅ごうとしたことは何度かある。舐めようとしたこともある。そのとき私はそれをいやがった。なぜか。これにはいくつかの理由が考えられる。そこにデリダの「(見られる)恥ずかしさ」におそらく近い「居心地の悪さ」がまったくなかったかといえば噓になる。しかしもっと大きな理由は、犬の嗅覚の赴くままに身を任せることで、それにたいして体を開くことで、いわば獣的世界──「悪臭」をこよなく愛する獣どもの世界──に自分まで染まってしまうのではないか、仲間入りしてしまうのではないかという不安だったろうと思われる。むろんこれは私の妄想から来る不安にほかならないが、それはともかく、対面において犬が私に向けるのは、視覚ないし嗅覚というより、嗅覚をもっとも太い管とする諸感覚の束のようなもの(むろんヒュームがいうのとは別の意味で)、嗅覚を中心とする一種の共感覚(synesthesia)であるような気がする。

 デリダにおける視覚偏重は明らかである。この視覚偏重と嗅覚の無視はそれじたい症候的ではないだろうか。いまこの点を掘り下げる余裕はないが、じつは嗅覚こそは、嗅覚的なものこそは、デカルト的な「私はある」が前提としなかったとデリダがいう「私は生きている」や「私は息をする」の側にあるのではないか。そしてそこに、人間の内なる動物性とも重なる、対面の本質的な一側面があるのではないだろうか。

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