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兵士全員の帰還を目指して 『骨が語る兵士の最期』より

記事:筑摩書房

original image:pianissimofire / stock.adobe.com
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遺骨収集事業の現状

 敗戦後、日本人はしばらく海外に渡航することが禁止されていたため、海外渡航が許可された一九五〇年から、海外での遺骨収集が始まっている。

 我が国における先の大戦の戦没者は、総数で三一〇万人と言われている(時々誤解をされている方がいらっしゃるが、この総数は旧軍人のみではなく、一般市民も含まれている)。このうち、海外での戦没者は二四〇万人だが、これには、硫黄島と沖縄の戦没者が含まれている。

 そしてそのうち、収骨開始以来これまでに約一二七万人分の兵士の遺骨が収骨されている。したがって、まだ海外には約一一三万人分の遺骨が未収骨のまま眠っている。この未収骨のうち、飛行機や船で海没したために収骨が困難な数が約三〇万人、そして、中国や韓国等相手国の事情から収骨が困難な数が約二三万人といわれている。したがって、現在の遺骨収集の対象は、約六〇万人となる。

 第二次世界大戦中、アメリカ軍は一六〇〇万人の兵士を動員し、四〇万人以上が戦死している。このうち、現在でも七万二〇〇〇人が行方不明だという。国防総省の指揮下にJPAC(米国戦争捕虜および戦争行方不明者遺骨収集司令部)という組織があり、人類学者や歯科医、考古学者約四〇〇人が働いている。国家の責任で、最後の一兵まで発見することに全力を注いでいるのだ。

 そこで、戦後七一年目を迎えた二〇一六年三月二四日、国会で「戦没者の遺骨収集の推進に関する法案」が全会一致で可決された。この法案は、二〇一六年から二〇二四年度の九年間を遺骨収集強化期間と定め、法人を設立して遺骨収集を加速化させるという内容である。

 この法人は、二〇一六年七月一日に、一般社団法人日本戦没者遺骨収集推進協会として発足した。この法人の理事は、遺骨収集を実際に行っている日本遺族会等八つの組織から一名ずつ選出され、監事には本書にもたびたび登場する日本青年遺骨収集団理事長の赤木衛さんが選出されている。

兵士の帰還の歴史

 これまで文章をお読みになり、遺骨収集の主体が防衛省ではなく厚労省であることに疑問を抱かれなかっただろうか。

 戦時、陸軍省と海軍省があり、対立していた事をご存じの方もいらっしゃるだろう。一九四五年八月一五日、日本はポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた。一九四五年一二月一日、陸軍省と海軍省は解体され、異国の戦地に取り残された将兵を祖国に復員させる目的で、陸軍省は第一復員省に、海軍省は第二復員省に改組された。当時、海外には旧陸軍将兵が約三〇八万人、旧海軍将兵が約四五万人、民間人約三〇〇人の合計六五三万人が取り残されていた。

 一九四六年六月一五日には、二つの省が統合されて復員庁となり、その中に二つの局が設置され、第一復員局は旧陸軍を、第二復員局は旧海軍を担当している。そして、翌年の一九四七年一〇月一五日に復員庁は廃止されて第一復員局は厚生省に移管され、第二復員局は総理府に移管された。その後、第二復員局は一九四八年一月一日に厚生省に移管され、すべての復員は厚生省復員局の管轄下に置かれた。一九四九年までに、約九九パーセントが帰国したという。

 やがて、引き揚げ者が少なくなった一九五四年に引揚援護局に改組され、二〇〇一年には厚生労働省社会・援護局に改組されて現在に至っている。防衛省は、旧軍とは異なる別の組織として設置されたため、旧軍の継承者ではないという立場となっているのだ。

遺骨帰還のプロセス

 具体的に遺骨が発見された場合、どうするのか。ここで、ご説明しよう。まず、現地で遺骨が発見された場合、私のような法医人類学者が日本人か否かを鑑定する。その際、現地では「遺骨鑑定人」と呼ばれる。

 遺骨と一緒に発見された遺留品は、基本的に氏名等が記されているものに限って持ち帰る。「遺留品」は、基本的に印鑑・万年筆・飯盒・水筒や軍服・軍靴・認識票等を指す。指針には、御守・日記・手紙・写真・軍隊手帳等も含まれるが、現実には七〇年以上経った現在では紙製あるいは布製のものは経年劣化してまず発見する事は困難である。但し、細かな規定は派遣される国より若干異なる。

 日本人と鑑定された遺骨は、検疫法により、基本的に現地で火葬して焼骨として持ち帰る。但し、DNA鑑定にかける歯や完全な四肢骨については、検体として焼かずに持ち帰る。そうしないと、歯や骨に含まれるDNAが破壊されてしまうからである。

身元の特定

 DNAによる身元の特定は、二〇〇三年から実施されている。結果が公表されている二〇一六年まで、二〇四八の検体がDNA鑑定にかけられ、約半数の一〇〇七体の身元が判明しており、一〇四一体は否定されている。ただ、これには地域差があり、一〇〇七体の内、旧ソ連地域が九九六体・南方等が一一体と、約九九パーセントは旧ソ連地域からとなっている。これは、元々シベリア等の寒い地域ではDNAが破損しにくいことと、シベリア地域で埋葬された戦没者は生き残った元戦友が名前と共に地図を遺していたことと無関係ではない。その点、南方地域の戦没者は名前はおろか戦没地までほとんどの情報がないというのが現実である。一緒にフルネームが書かれた遺留品がなければまず、特定は不可能である。

人類学者としての調査

 私は、自然人類学を専門としており、これまで、シリア・ケニア・アメリカ・インドネシア等で古人骨の発掘調査に携わってきた。その経験から、戦没者の遺骨を鑑定する人類学専門員として日本人類学会より推薦され、二〇一〇年に厚生労働省の人類学専門員に就任した。さらに、二〇一七年からは日本戦没者遺骨収集推進協会の人類学専門員に就任し、これまで厚労省時代に一四回、推進協会時代に三回の合計一七回、遺骨収集の現場に派遣されている。

 私は、旧日本軍兵士および民間人約五〇〇体を鑑定してきた。この回数と鑑定数は日本人研究者としては最多である。本書では、私の遺骨収集と鑑定におけるさまざまな体験をレポートしていくが、遺骨収集の現場は困難の連続であった。

 例えば旧トラック諸島では、規則的に埋葬された墓地を発見したが、すでにタロイモ畑になっていたり家屋の床下になっていた。遺骨収集に反対する現地民も多く、許可が下りないこともしばしばである。だが、現地の人々の協力が得ることで、遺骨の場所にたどり着けることもある。ツバルで墜落した九六式陸攻のケースでは、墜落当時に埋葬した古老の証言通りに遺骨が墓地から発見された。

 のような個別の発掘とは別に、サイパン島のように米軍によって集団埋葬された日本人兵士の収骨もあった。サイパン島タナパグ海岸では米軍は四三一一人もの日本人兵士の遺体をブルドーザーで埋葬した。日本軍の認識票は番号のみが記されているので、それだけでは身元が判明することは少ない。さまざまな骨の特徴や遺物、DNA鑑定などを駆使して身元を調べる。そうして、できる限り全員の兵士の帰還を目指して現在も調査が続けられているのだ。

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