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日本軍は、指揮官個人に死ねと命じ、玉砕を放置した 『餓死した英霊たち』より

記事:筑摩書房

original image:Ambartsumian / stock.adobe.com
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 作戦目的達成のためには他のすべてを犠牲にしてもよいとする作戦第一主義は、しばしば兵が飢えることも意に介さないし、ときには死ねという命令まで出すという非人間的な面を見せることもあった。

 インパール作戦が失敗しつつあった1944年7月、北ビルマでは中国の雲南遠征軍が怒江方面からと、スチルウェル中将の米支軍(中国兵を米式装備で武装し、米軍人が指揮した軍)がフーコン河谷沿いに攻勢をとっていた。このとき北東ビルマ防衛のため編成されていた第三十三軍(軍司令官本多政材中将)は、怒江方面に攻勢をとり、フーコン方面は時間を稼ぐために、ミートキーナの第十八師団の守備隊にたいし、第五十六歩兵団長水上源蔵少将を救援に差し向け、同少将を守備隊の指揮官とした。そして同守備隊に次のような軍命令を打電した。

第三十三軍命令要旨
一、軍ハ近ク龍陵方面ノ敵ニ対シ攻勢ヲ企図シアリ 「バーモ」、「ナンカン」地区ノ防備ハ未完ナリ
二、水上少将ハ「ミートキーナ」ヲ死守スベシ

 この命令は水上部隊にたいしてでなく、水上少将個人にたいして「死守」を命じている。この命令案は辻政信参謀が起案したもので、水上少将に死ねと命じたのである。圧倒的な米支軍の重囲の中にあったミートキーナの守備隊は、7月下旬1200名まで減じた。8月1日水上少将は自決し、守備隊の主力である第十八師団の歩兵第百十四聯隊(聯隊長丸山房安大佐)などの部隊は、ミートキーナを脱出した。この軍の処置にたいしては、水上少将の直属上官である第五十六師団長松山祐三中将が憤慨して抗議したが、水上部隊は軍直轄になっており、軍は抗議を拒否した。作戦の都合であったにしても、指揮官個人に死ねという命令を出す参謀の冷血さがうかがわれる事件である。

 ビルマではこれより先のインパール作戦で、はじめから兵が飢えるのがわかっている計画を立てていたという非人道的な事件がある。これは参謀よりもむしろ軍司令官牟田口廉也中将の問題である。『戦史叢書』には次のような記述がある。

 インパール攻略までは、各部隊は自ら食糧や弾薬を携行し、山砲をかついで大アラカン山中に進攻しようというのであるから、膨大な輸送機関も山地進攻間はほとんど役に立たない。
 第十五軍の薄井参謀は「軍では野草を食料にすることを研究している。インパールやコヒマに行き着くまでは各人の携行糧食と野草や現地食料で食いつないでいく」と説明し、方面軍の不破参謀が「兵站主任参謀たる君がそんな危険な方法でこの大作戦ができると考えているのか」と詰問すると「軍司令官の方針だから、われわれの意見ではどうにもならない」と答えた。

 はじめから兵に野草を食わせる計画で、すなわち飢餓を承知で作戦を立てたのである。はたして、インパール攻略は実現できず、10万の将兵は飢えに苦しみ、退却の途上で5万の犠牲者を出した。味方の兵の生命さえ気にしない作戦万能主義の現れであった。

 非人間的な作戦の典型は、いわゆる「玉砕」の放置であった。43年2月のガダルカナル撤退以後は、5月アッツ島、11月ギルバート諸島のマキン、タラワ、44年2月マーシャル諸島のクェゼリン、ルオットと玉砕が相次いだ。これらの島の守備隊にたいし大本営は電報のやりとりをするだけで、何の救援の措置もとらず、撤退の手段も講ぜず、玉砕を傍観するばかりだった。作戦課の高山信武は、次のように心許せる同僚とひそかにささやき合ったという。

 「南太平洋の孤島に孤立する守備隊に対して、大本営の態度は現状でよいのであろうか。みすみす全滅を予想される守備部隊に対して、増援もせず、撤退もさせず、しかも降伏も認めない。即ち“死ね”という以外の何物でもない。増援、撤退は作戦の現況上不可能である以上、せめて、最後の段階においては降伏を認めてやってもよいのではあるまいか」
 「気持はよく判る。自分も個人としては同感だ。文明国である米英等の外国軍隊はいずれも降伏を認めている。シンガポールといい、コレヒドールといい、敵軍は善戦健闘、人事を尽した末は開城降伏をしている。しかし、日本軍においては従来降伏は認めていない。刀折れ、矢尽きても、さいごは一対一で敵と差し違えてまで、敵の戦力をできるだけ消耗させようという訳だ。無情といえば無情、非道といえば非道である。しかし今、かりに降伏を認めるということになると、特攻作戦も問題になる。祖国防衛の大義の前には、現状で眼をつむるより外にしかたがないのではないか」

 この高山参謀の回想記は、戦後30年以上経って書かれたものである。当時の大本営の内部でこのような会話が実際に可能であったかどうかは検討の余地がある。しかし大本営が離島の部隊を見殺しにし、「玉砕を傍観するばかりだった」のは紛れもない事実である。大本営参謀の中でこのような考えが生まれることも、当然あり得たであろう。しかしそれを表面に出して議論することはなかったはずで、降伏を認めるという意見が出された記録は残っていない。

 結局は降伏を認めないという無情、非道の方針が貫かれ、玉砕の悲劇はくりかえされていったのである。

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