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佐藤友亮『身体的生活』 身体感覚を発揮して生きるとはどういうことなのか

記事:晶文社

『身体的生活――医師が教える身体感覚の高め方』(晶文社)
『身体的生活――医師が教える身体感覚の高め方』(晶文社)

予測できない未来から、自分の身を守るには?

 人間は、自然災害や大きな事故、生活上の問題などによって簡単に傷つき壊れてしまうはかない存在である。地球や社会は、一人のために存在しているものではないから、大きな力はいとも容易く個人を呑み込んでしまう。環境破壊や紛争をはじめとする様々な問題が渦巻くこの世の中で、個人はどのようにして自分の身を守ればよいのだろうか。

 人間をとりまく社会について考えてみると、国民国家や企業のような規模の大きなものもあれば、家庭のような小さなものもある。小さな社会は、家族や仕事仲間、友人など手の届く範囲の関係で作られていて、その関係が日々の生活に直接影響を与えている。身近な人達との関係をすべて敵味方として分けるのはよいことではないけれども、全面的な「味方」と思い込んでいる人が、実は自分の生きづらさの原因になっていることがあるし、全く心を開くことができないような「敵」と見なしている人が、自分の能力や人間性を高めている場合もある。

 例えば、仕事上新しいプロジェクトを前に進めようと考えるとき、案外一番労力を割かなければならないのは、身近な上司や仲間を説得することだったりする。最も身近な人達の承認や協力が得られないと、せっかく良いアイディアを持っていても、それを世に出すチャンスがなくなってしまう。家族や仲間といった身近な人達は、一番の理解者、サポーターとなる可能性があるのと同時に、目標を持って行動するときの大きなハードル(障害)にもなり得るのである。

 周囲の人達との関係を整えることは、生きていく上で非常に大切なことだろう。そして、身近な人達との関係は、意識しているかどうかに関わらず、個人の感情や行動を揺さぶる力を持っている。

 できるだけ健やかに生きていこうと思うとき、私は自分の外、すなわち、大きな社会、あるいは小さな社会の側を変えるということから行動するのには、限界があると考えている。社会を変えるための活動は、それがいかに重要なものであったとしても、確実な成果を表すまでに時間がかかるし、残念ながら成果につながらない場合もある。

 一方、自分の内面、すなわち心身のあり方は、工夫次第で変えることができる。これは、個人が身を守るための確実性の高い方法だと言えるだろう。さらに、心身のあり方について工夫することは、社会を変えるための活動に関わる人間においても不可欠なものである。それは、活動の基礎となる健康や活力を得ることにつながっている。

 人は、ときに自分が生き延びるための長期にわたる戦い(「社会との戦い」と言ってもいい)に関わらざるを得ないことがあるものだ。やむなく戦いに関わることになったとき、あるいは、できるだけ戦いと関わらないように生きるためにも、内面を充実させることは大切だと思う。戦いというと大げさだけれども、それは広い意味では、先に述べたような「自分と周囲との関係を整える」ということと同じである。

キーワードは「身体感覚」

 現代における社会生活は身体感覚を活かすものというよりも、どちらかというと抑圧するものになってはいないだろうか。できることならば、身体感覚の発揮にもとづく生身の人間の能力や魅力が、生きやすさや楽しさ、仕事における充実感に結びつくものであってもらいたい。

 私は、西洋文明的に構築された現代の社会生活に、合気道に代表されるような東洋的な思想を持ち込むことは、生きやすさや人生の充実をもたらすと考えている。西洋文明的な価値観とは、より高く、より強く、より大きな成果を求めるものである。未開のものは常に開拓されるべきであり、説明がつかない問題は、科学的論理的に解明されるべきと考える。西洋医学は、このような価値観のもとで形作られているものの代表と言える。しかし、東洋的な考え方は、鈴木大拙の言葉を借りるまでもなく、曖昧、混沌を受け入れ、細かな事象よりも物事全体の調和に価値を置く。

 西洋的なやり方で目標を過度に追求することは、心の葛藤を呼び起こし、自我を増大させ、人を洗練から遠ざける。かといって、方向性もないままに日々を過ごすことからは何も生まれないだろう。「求めすぎずに、創造的な人生を送る」というのが、身体的生活のキーワードと私は考えている。

 私は、合気道と出会うことで、対人関係の作り方、仕事の進め方、芸術的感性の高め方などに大きな影響を受けた。合気道をする方でこのような考えをお持ちの方は少なくないと思う。

 武道の稽古は、指導者の教えを素直に聞き入れ、常に謙虚な気持ちで、技に集中することが何よりも大切と言われる。また、一方では、自分が技をするときは、その場全体を吞み込むような気持ち、その場を自分が主宰する気持ちで身体を動かすことが大切とされる。これは、言い換えるならば、周りからの情報を広く受け入れる柔軟性と、自分自身の行動を他の何者でもない自分から出発させるという、孤独を引き受けるマインドセットの両方を要求するものである。

 私にとって、「身体芸術としての合気道」というテーマは、師匠の師匠から教えとして受けた言葉であると同時に、常に自発的に合気道をすることを自分に決意させた言葉だった。私の合気道は、その時初めて孤独なものとして再出発した。そして、孤独だからこそ、師や仲間の存在を再認識するきっかけになった。かつて合気道は、私が盛岡から大阪に出てきたとき、様々な不安に振り回されていた私を優しく包み込んでくれた。そして時が経ち、合気道はまた別の扉を用意してくれたのである。

 芸術とは、何らかの創意、オリジナリティによって成り立つものである。オリジナリティとは、奇をてらうことや、だれも気がついていない隙間を狙ったらたどり着けるというものではなく、その人自身の持つ拭いがたい個性、すなわち孤独を通してしか生まれないものである。合気道を身体芸術としてとらえるという私自身の方針は、暗闇のようなところで稽古に励んでいた私に対して大きな希望をあたえるのと同時に、孤独な道行きの始まりにもなった。そして、合気道について、そのようなことを感じたり考えたりすることは、合気道の中にとどまることでもなさそうだった。

(佐藤友亮『身体的生活――医師が教える身体感覚の高め方』より抜粋)

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