コロナウイルスとの距離のとり方 アンドレ・コント=スポンヴィル『哲学』
記事:白水社
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あらゆる出来事が哲学するための絶好の機会になります。哲学は、恐れをはじめとするさまざまな感情や政治的な正しさにおし流されることなく、ゆっくり反省し、適切な距離をとるよう私たちを促すというかたちで私たちの助けになりうるものです。
みなさんにお伝えしたいことが二つあります。良い知らせと悪い知らせです。悪いほうは、私たちは全員死んでゆくということです。良いほうは、私たちの大半がやがて死んでゆくにしても、その原因はコロナウイルスとは別のものだということです。
1968年のインフルエンザ──通称「香港かぜ」──では、ほぼ全世界的な規模でおよそ100万人の死者が出ました。1957年から1958年にかけてのいわゆる「アジアかぜ」では、それ以上の死者が出ましたが、いまではだれも記憶していません。
モンテーニュが、『エセー』のなかでこう書いていました。「病気にかかったから死ぬのではない、生きているから死ぬのだ」。自分たちが死すべき者であることにもっと頻繁に思いを巡らすようになれば、私たちはますます生を愛することでしょう。つまり、生が脆く、短く、時間的にかぎられていることに思いいたり、だからこそ生は貴重なのだと気づくようになるでしょう。だからこそ、伝染病は、逆にこれまで以上に生を愛するよう私たちを促してくれるはずです。
ウイルスを生みだすのは、グローバリゼーションではありません。14世紀の黒死病は、当時のヨーロッパの人口の半分近くの命を奪いましたが、そこではグローバリゼーションはなんの役割も果たしませんでした。ですが、今回の危機が私たちに教えているのは、ほかの国々に、たとえば中国に、私たちの健康にとってもっとも必要な産業を委任してしまうのは危険だということです。この大事な教訓は、肝に銘じられねばなりません。
「外出禁止」は、私が生涯に経験したなかでもっとも強力な、自由にたいする制限です。みなさんもそうだと思いますが、一刻も早くそんな状態から脱けだしたいものです。健康と引きかえに自由を犠牲にするわけにはゆきません。
私としては、全体主義国家のなかでコロナウイルスから逃れるよりは、自由の保証されている国においてコロナウイルスに罹患するほうがましです。
以前の世界はけっして戻ってきませんが、逆に、すべてがゼロからやり直しになることもありません。歴史が白紙になることはありません。すべてはそのままあり続けると信じている人びとも、すべては変わってゆくと信じている人びとも思いちがいをしています。
利他主義は最近登場したものではありません。利己主義はなおのことです。両者は20万年にわたってそうであったように、共存関係のままであり続けます。あてにすべきは、善意ではなく政治と法です。
伝染病によって、人びとの関心事のトップが健康になっています。そして、正しいことではありますが、医師にスポットライトがあてられています。かつてここまでテレビで医師たちを見ることはありませんでしたし、「看護師たち」の困難で勇気あふれる作業──それは正しいことですが──に、謝意を表明したこともありませんでした。よいことです! ですが、いつかは不安が生まれます。健康のこれほどの優越を承認することで、私たちはなにか思いちがいをする危険を冒してはいないか。医師にたいして、彼らの意に反して、途方もない役割を負わせているのではないか。
医療/医学にすべてを求めるべきではありません。
医療は偉大なものです。たぶんこの時代にあらわれたもっともすばらしい幸運です。ですが、医療に政治や道徳、精神性の代わりを求めてはなりません。社会にはびこる病を治療するために、私があてにするのは医療よりもむしろ政治です。自分の人生に見通しをつけるためには、かかりつけの医師よりも自分自身を当てにします。
ヴォルテールの警句「私が幸福であろうと決意したのは、それが健康に良いからだ」を私はよく引用しますが、このことばは私にとってある決定的な進展のはじまりを印すものであり、それ以降もますますそれは明白になりつつあります。
幸福とは、いまや健康がその座を占めている至高の目標に到達するための一手段でしかないという考えは、少なくとも25世紀におよぶ文明との関連で言うなら完全な転倒を遂行することです。なにしろ、この2500年のあいだ私たちは、まったく逆に、健康とは幸福という至高の目標に到達するための──たしかにことのほか貴重なものではありますが──一手段でしかないと考えてきたのです! 私はここにある危険を認め、それを「汎-医療主義」と名づけます。
それは、健康を至高の価値とみなし、たとえば幸福に、それどころか愛や正義や自由──これらは私にとっては真の至高の価値です──に代えて健康を一番と考え、その結果私たちの世界や他者、さらには自分自身との関係についてのほぼ唯一の鍵を医療のうちに見ようとする文明のことです。
汎[パン]とは、ギリシア語で「すべて」という意味です。汎-医療主義とは、医療/医学にすべてを、つまり健康ばかりでなく幸福そのものを求める態度です。
経済的な封鎖は、大きな、おそらくはウイルスそのものよりも甚大で有害な打撃を生むかもしれない点で、個人的には悩ましいところです。もう70歳に近い自分の健康よりも、わが子たちの職業的未来のほうがずっと気にかかります。
フランスは、コロナウイルスとその封じ込めのための追加出費として1000億ユーロを計上しています。それに異を唱えるつもりはありません。しかし、だれがそれを払うのでしょうか。だれが私たちの負債を返済することになるのでしょうか。毎度のことですが、それは私たちの子ども世代です……。それを思うと私は泣きたい気持ちになります。
コロナウイルスに直面して、私たちは慎重さ[プリューダンス]を発揮しなければなりません。ですが、ギリシア人たちがプロネーシスと呼んだ意味での慎重さとは、もともと実践知を意味しており、リスクを減らすためだけのふるまいではありません。エピクロスが「利点と欠点を比較しながら」選択すると言ったさいの意味が、そこには込められています。
医療にかかわるリスクを減らすためのあらゆる方策は、だからといって絶対的に講じなければならないというわけではありません。たとえば、すべての公共交通機関を停止してしまえば、伝染病は確実に弱体化することでしょうが、そんなことが社会的・経済的に耐えられるでしょうか。科学委員会のなかに経済学者が含まれていないのは残念なことだと思います。
健康が問題になっているときに経済について語るのは慎みを欠いていると言う人びとがいます。それは間違っています。なにしろ、資金調達と無縁な優れた医療はありませんし、選択の余地のない資金調達もないのです。こうしたことは、いささかも「外出禁止」の問題──それがどれほど私たちの自由にあらがうものであれ、私たちは厳格に遵守しなければなりません──を統制するものではありません。ですが、いくつかの問いを、それもまったく正当な問いを提起することは許されています。
「外出禁止」はいつまで続くのか? それが経済に与える影響はどのようなものか? 私たち全員はどのようにその「コストを負担する/報いを受ける」のか? 解答はと言えば、医師ばかりでなくむしろ経済学者のほうが語るべきものをもっているでしょう。また、決断はと言えば、医者でも経済学者でもなく、私たち全員が、私たちの選んだ代表の仲介をへて下すことでしょう。それこそが民主主義と呼ばれるものであり、どんな専門家の判定もそのかわりにはなりません。
健康を犠牲にして経済が優先されることなどあってはなりませんが、その逆の事態も起こってはなりません。いずれをも考慮にいれてゆく必要があります。多くのウイルスよりも貧困こそが死をもたらします。医療と経済を対立させるほど馬鹿げたことはありません。医療は高くつきます。だから医療には繁栄している経済が必要です。
健康への出費を増やすって? だれもがそれには賛同するでしょう。ですが、経済が崩壊しているときに、どうやってそれを実現するというのでしょうか。この点については、国立倫理諮問委員会のメンバーだったときに、なんども言及してきました。すなわち、健康にかかる費用について語ることはいささかも倫理に悖(もと)ることではありませんし、お金について語らないことのほうが倫理に悖るのです。
しばしば、危機のときには、個人の自由に圧力が加えられます。目下のところ、公衆衛生にかかわる議論が前景を占めています。
生命を救うことを目的としている方策に正面から異を唱えるのは難しいことです。そうではありますが、問いを提起することはできます。現在の「外出禁止」に疑問を投げかける人もいれば、数か月のうちにこの状態から脱することは不可能だと考える人もいます。私はと言えば、心配性な性質(たち)ではありますが、このウイルスで亡くなるかもと恐れてはいません。これに比べれば、アルツハイマー病のほうがはるかに気になります。
私が気をもむのは、自分の健康ではなく若い世代の行く末です。「外出禁止」に由来する経済の落ち込みの結果、失業というかたちをとるにせよ、負債というかたちをとるにせよ、もっとも重いつけを払わされることになるのは、若い世代です。老人の健康のために若者が犠牲になるのは常軌を逸しています。
ですから、とにかくコロナウイルスに打ちかつ手段を勝ちとりましょう。だからといってコロナウイルス以外のすべてを忘れ去ってよいというわけではありません。手洗いはもちろん大事ですが、それは叡智の代わりにはなりません。自宅から出ないのも有効ですが、そうしたからといって適切な距離をとって考え、わずかなりとも明晰さを保ち、(敢えてこう言ってよければ)わずかなりともユーモアをもち続けることは必要でしょう。
(翻訳:小須田健+コリーヌ・カンタン)