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われわれは何かを殺して食べている――檜垣立哉『食べることの哲学』

記事:世界思想社

『食べることの哲学』(世界思想社)
『食べることの哲学』(世界思想社)

食べることの哲学

 食べることの哲学ときいてどのようなことをおもい浮かべられるだろうか。さまざまな食事の分類、美食や味にかんする考察、食の地域性など、おおよそこういうことが普通には想定されるかもしれない。

 確かにこれらの個々の主題は哲学としても興味深いものであり、近年でみてもさまざまな書物がある。人類学者レヴィ=ストロースや記号論者ロラン・バルトの著作などはそれらの代表であり、私も参考にしている。食べることは一面、身体的な感性に強く訴えかけるものであり、なおかつそこには多様な人間の知が凝縮されている。また文化的な儀礼や祭儀にまつわる食のあり方や、地域における食の観念についての目を見張る差異も、相当に興味深いものである。

 たとえば私は強く主張したいが、ヨーロッパにおけるフランス語圏より北、すなわちアングロサクソン圏やゲルマン圏(ただしゲルマン圏は東方の影響が強いので微妙であるが)には正当な意味で「料理」というものはないとおもう。あるのは英語の「ディッシュ(dish)」そのものの「皿」である(ただし、もともとdishは大皿料理であり、それが地中海圏にないわけではない)。「キュイジーヌ(cuisine)」という名に価する料理は「東方」からきたものであり、それはヨーロッパにおいてはフランスという境界線でとまっている(それがゆえにフランス料理こそがヨーロッパ料理であるという観念は、北ヨーロッパでは強い)。これには異論も当然あるだろう。こうした議論には、料理とは何か、あるいは人間が快楽をともなった感覚としてとらえる味をどう考えるのかといった問題が詰まっている。

 こうした事柄は論じるに楽しいものであり、さまざまな知見がある。そのことについては、この本のなかでも折々の箇所で触れていきたい。しかしながらこの書物は『食べることの哲学』と題されたものである。哲学といえば思想史や大哲学者の難解な思考体系をまずは想定してしまうだろう。だがそれと、きわめてわれわれの日常に即した「食べること」との関係は何か、あるいはそんな常識的なことと哲学とが本当に関係があるのか、こういう疑問を当然のようにもたれるかもしれない。もっともなこととおもう。

われわれは何かを殺して食べている

 誰もが普段気づいていないことであるが、食べものというのは、ほとんどが「生きたもの」である。このいい方はいささかオブラートにくるんだものであり、実際には塩分やミネラルなどをのぞき、われわれは何かを殺して食べているのである。もちろん、ヴェジタリアンがおり、動物は食べるべきではないという主張がなされることもある。だが、その場合でも食べてもよいとされる植物もまた生物であることには変わりがない。また多くの食のタブーはこの「殺す」ということにこだわりをもっている。何をどういおうと、われわれは生き物を食べ、そのかぎりでそれを殺している。

 とはいえ、よくおわかりのように、とりわけ近代社会においてはみだりに生き物を殺すことを推奨する文化はほぼ存在しない(戦争という重大な例外事例はあるが、この点は措いておく)。一方では生きているものを殺してはダメだというのは文化の基本的な原則でもある。だが同時にわれわれは日々自分が生きるなかで、大量の動物や、あるいは植物を、やはり殺して食べているのである。現代文明においてはまさに、みえないところでそうした殺戮はおこなわれる。これは端的に矛盾ではないか。

 すがすがしいまでにこの矛盾を問い詰めるのは宮沢賢治である。宮沢は法華経というきわめて戦闘的な仏教的信仰を背景にもちながら、この問題を小説や童話という仕方で書きつづけた。それは食物連鎖そのものを問う「よだかの星」、あるいは人間もまた食べられる自然であるということを喚起させてくれる「注文の多い料理店」や「なめとこ山の熊」などにおいて明示されていることである。人間は生き物を食べないと自分が死ぬ。しかし、自己の倫理に忠実であれば、そもそも自分が死ねばよいのではないか。宮沢の問いそのものはここにまで達してしまう。

(『食べることの哲学』序より抜粋。序の全文はwebマガジン「せかいしそう 」で公開中)

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