小説は正史が取り上げない事物を書いている 『小説は君のためにある』より
記事:筑摩書房
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小説とは読んで字のごとしだ、という話はよくものの本に見かける。つまり小さい説である。小さいとは大きくないということだ。じゃ、百巻も二百巻もある小説は、小説じゃないのか、大説なのか、というと、そうとも限らない。
小さい、大きくない、というのは、分量や重量を指すわけではないのである。それは内容的な大小なのだ。「大したことのない話を説く」のが小説なのである。
そうなるとすぐに次の疑問が出る。そんなら、「大したことのある話」とは、なんなのか。
正史である。正しい歴史だ。
ここで本来なら、んじゃあ「正しい歴史」ってのはなんだ、という新たな疑問が出る。当然の疑問だけれど、申し訳ないことにこの巨大な疑問に僕には、きちんと答えるだけの知識がない。正しい歴史についてきちんと知りたい人は、史学の本にあたってください。ここでは小説に関わる部分だけ、そして僕の考える限りのことだけを書く。
古代の中国では、官僚の最も重要な仕事の一つとして、歴史の記述があった。
いつ誰が、どの地域の権力を握ったか。どのような戦いが、どこで行われたか。その大将は誰であったか。それによって統治はどのようになり、どんな政治が行われたか。中国ではそれらが逐一、しっかりと記録されていった。これを記録する官僚を史官といい、史官の記録した歴史を正史といった。『史記』『漢書』『後漢書』そして、みんな大好き『三国志』。これらは代表的な正史である。
史官は高級官僚である。これに対して身分の低い官僚に、稗官というのがいた。のぎへんに卑しいと書くところからもわかるように、でかい仕事はさせてもらえなかった。歴史の記述なんかもってのほかだ。
稗官の仕事は、町や地方を回って、庶民から話を聞いて、それを書き記すことだった。
稗官の採取する話を、稗史といった……らしい。実際にはどうやら、稗官による稗史として確かなものは、残っていないようだ。しかし古来からこの話はこのように語り伝えられ、稗史という言葉は今に残っている。
この、下級官吏がそこらのおじさんやおばあさんから聞いた珍談奇談の記録である稗史が、小説の先祖である。明治時代までは小説のことをそのまま「稗史」ともいっていた。
つまり言葉の本来の意味だけを考えれば、「正史↔稗史(=小説)」という定式は得られるのである。小説は正史の扱わない事柄を書いたものなのである。──本来は。今ではもちろん、それこそ『三国志』に取材した小説や、歴史上の英雄や事績に取材した小説は数多い。それでもそういった小説が「正史」ではないことに変わりはない。
稗史は正史に現れない人々を描く。数千数万と十把ひとからげにされる、その数千数万を一個の人間として見つめるのが、稗史の子孫である小説の役目だ。
この役目は重要である。この世に人間の営為を描いた文学が「正史」のほかになかったら、生きていた人間のほとんどが、砂のように風に吹かれて消えて行ってしまう。小説は、英雄とか、偉人、スターであるような人間ではなく、そこらの人間、スポットライトの当たらない人間、しかし語るにあたいする人間を描く文学である。
《これほどの大事をくわだてながら、なんとつまらんことにびくびくしているのだ!》彼は奇妙な笑いをうかべながら考えた。《フム……そうだ……すべては人間の手の中にあるのだ、それをみすみす逃がしてしまうのは、ひとえに臆病のせいなのだ……これはもうわかりきったことだ……ところで、人間がもっともおそれているのは何だろう? 彼らがもっともおそれているのは、新しい一歩、新しい自分の言葉だ。だからおれはしゃべるだけで、何もしないのだ。いや、もしかしたら、何もしないから、しゃべってばかりいるのかもしれぬ。おれがしゃべることをおぼえたのは、この一月だ。何日も部屋の片隅にねころがって、大昔のことを考えながら……。ところで、おれはいまなんのために行くのだ? 果しておれにあれができるだろうか? いったいあれは重大なことだろうか? ぜんぜん重大なことではない。とすると、幻想にとらわれて一人でいい気になっているわけだ。あそびだ! そうだ、どうやらこれはあそびらしいぞ!》
ドストエフスキーの身をよじりたくなるような傑作『罪と罰』の冒頭部分から引用した(工藤精一郎訳)。
この「彼」は「十九歳の地図」(中上健次著)の主人公と同様、貧乏な学生である。今、下宿を出て通りを歩いているところだ。
この学生はどうやら「大事をくわだて」ているらしい。でも同時にそれを「ぜんぜん重大なことではない」「あそびだ!」と、自分の計画を馬鹿にもしている。このあたりも「十九歳の地図」の主人公に似ている。
さらにこの学生が、どこまで行っても貧乏学生だというところも「十九歳の地図」と同じ。
ただこの学生はこのあと、実際にある「大事」をやってしまう。それはいたずら電話などという、ちゃちなものではない。そこが「十九歳の地図」と大きく異なる。そしてその「大事」と貧乏学生の人間関係によって、『罪と罰』は壮大なドラマが渦を巻く小説になっている。
それでも、この貧乏学生が歴史に名を残すわけでもなければ、立身出世の人でもないことに変わりはない。彼がやるのは確かに「大事」だが、それはたかだか新聞の社会面を何日かにぎわす程度のものでしかないのだ。
その程度のことをやった・その程度のことしかできなかった貧乏学生を描くのに、小説はほとんど一千ページを費やし、作者は精魂を傾けている。
貧乏学生の話なんか書かなくたって、世の中の大きな動きには別に影響もなかっただろう。あってもなくてもいい。もしも『罪と罰』がなかったら、この貧乏学生もいない(なんせ架空の存在だからね)。だけどいなかったからって、何がどうというわけでもなかったはずだ。貧乏な学生なんか、どこの国にも、いつの時代にも、大勢いる。
そんな吹けば飛ぶような、取るに足らない人物が、なぜ一千ページの小説の主人公なのか。なぜ作者はそんな存在を描くのに、精魂と年月をかけたのか。そして僕や(望むらくは)君は、なぜそんなのが主人公の小説を読むのか。
それは、僕たちもまた、取るに足らない存在だからだ。
とはいっても、僕は君を知らない。君は偉大な、例外的な人間なのかもしれない。今はそうじゃなくても将来は偉大になるのかもしれない。からかっているのではなく、その可能性は誰にでもある。
だが、やることなすことうまくいき、民衆の注目と支持を集め、功成り名遂げて歴史に刻まれるような人間なんて、ほんのひと握りだ。それ以外の僕(たち)は、懸命に生き、努力を重ねても、力が及ばなかったり、チャンスに恵まれなかったり、うまくいかない目にあう人は、とても多い。
そして、ポケットの中にある金をすべて賭けてもいい。歴史に名を残すような、偉大とされる人物だって、その心の中には、きっと「取るに足らない自分」を抱えている。隅から隅までオレは偉大だなんて信じて疑わない人間なんて、ドン・キホーテみたいに、どうかしちゃった人間だけだ。たいていの人間は、自分が「選ばれた人間」ではないことを知っている。
稗史の子孫である小説は、そういう人間のためにある。そういう人間を描く。もしも人間のおこないを描く文学が、正史しかなかったら、大事を胸に抱く貧乏学生は、文学の中に存在しなかっただろう。それは、僕たちが文学の中に存在しなかっただろう、といっているのと、同じなのだ。小説が描いているのは、僕たちなのだから。
小説が僕たちを描いている、ということと、小説が架空の人間を描いている、というのは、矛盾しない。もちろん、僕たちが架空の存在だ、などという意味ではない。
小説で描かれる人間は「類型(タイプ)」なのである。一人の人間として書かれてはいるけれど、現実にいる一人の人間を描くことをだけ目的にしているのではないのだ。
その人間を描くことで、まったく同じではないが似ているところのある、多くの人間を小説は描いているのである。それも顔かたちを似せようというのではなく、その人物の経験や感情、出くわした物事に対する反応や判断を描くことで、読者に思い当たるものを感じさせるのだ。
小説は、ドン・キホーテを描きながら、同時に「ドン・キホーテのような人間」を描いている。貧乏学生を描きながら、「この学生のような人間」を描いている。
虚構の人間を自由に描くことによって、小説は「すべての人間」を描こうとしている。すべての人間なんて、大袈裟すぎるのだろうか。大袈裟ではあっても「すぎる」とまでは言えないような気がするのである。