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なぜ世界でチベットの教えが関心を持たれているのか? 『チベット仏教入門』より

記事:筑摩書房

original image: tynrud / stock.adobe.com
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ダライ・ラマ法王

 ダライ・ラマ法王は、ノーベル平和賞(1989年)受賞者で、世界でもっとも有名な仏教僧でしょう。初対面の人ともすぐうちとけ、誰に対しても分け隔てすることなく、いつも顔をくしゃくしゃにして笑っている。まるで子供がそのまま大人になったような天真爛漫なお人柄、と評されることが多いですが、ご自身では、もし仏教がなかったら、睡眠薬なしに眠ることはできないと語っておられます。

人間の幸福と苦悩は、何度もいいますが、第一には本人の思考様式、すなわち考え方・心構えによって決まります。たとえば、私たちチベット人は国を失って、難民になりました。……私はときどき、“もしダライ・ラマが頼るべきダルマの理解を少しももっていなかったならば、いまごろはもう、私は睡眠薬を飲まずには眠れなくなっていることでしょう”といって、人々と冗談を交わすのです。しかし、私は睡眠薬なしで元気にやっています。たとえ私がまだ何も悟ってはいないとしても、仏陀の教えに対するささやかな理解は、絶望的な日々のなかにあっても、たいへんな助けになるのです。(『ダライ・ラマ 他者と共に生きる』春秋社)

 自身の出身地であるアムド地方の人は短気で有名だそうで、仏教修行のおかげで最近は怒ることが少なくなった、とも語っています(『思いやりのある生活』光文社)。ご自身の今の性格は、生まれつきというより、後天的な、仏教の修行によるところが大きいというのです。

 実際、子供のころの写真を拝見すると、気むつかしそうで、とても天真爛漫、という感じではありません。

 かつて日本では、チベットの仏教を正統なものとは異なるという意味で「ラマ教」と呼んでいました。「ラマ」は直訳すると「上人」で、師僧のことです、チベット仏教は、ラマを崇拝する、特殊な仏教だというのです。

 しかし、高野山大学で教鞭をとるためにダライ・ラマ法王から日本に派遣された学僧、ニチャン・リンポチェは、この「ラマ教」という言葉を別な視点から捉えられています。この言葉は、チベットを訪れたキリスト教の宣教師がチベットの信仰を「ラマイズム」と呼んだことに起源があり、キリスト教が創造主の命に従う「神教」であるのに対し、仏教は師である仏陀の教えに従って、自身も仏陀になることを目指す教えなので、「先生教」である。チベットの教えを正統とは異なるという意味で「ラマ教」と呼ぶのは間違いだが、「ラマイズム」という言葉自体は、一神教とは異なる仏教の特色をよく示している、というのです。

 私自身、学生に仏教の特色を説明するときに、TVの深夜番組のダイエット商品のCMのようなものだ、と説明することがあります。CMでは、その製品の愛用者がその器具やサプリでこんなにスリムになった、と効果を語りますが、師僧のふるまいこそが、教えがどのように効果があるのかを示す実例なのです。

仏教の目的──幸せになること

 そのダライ・ラマ法王は、仏教の目的を「幸せになることだ」と言い切られています(『思いやりのある生活』)。これは、意外に思われる方もいらっしゃるかもしれません。仏教は我を否定する教え、利他を説く教え、あるいは死者のための教えで、自分の幸せとは正反対のものだ、というイメージを持っている人もい少なくないのでは、と思います。

 しかし、日本でもチベットでも、仏教の実践は、「人身得難し、今已に受く」(三帰依文)、自分がこうやって今人間として生まれて生きているというのは、例外的な幸運なのだ、ということに気づくことからはじまります。仏教という言い方は明治以降広まったもので、かつては仏道と呼ばれていました。仏教は道なので、順番を間違えてしまうと、目指す目的地には到達できません。

 100パーセント満足してはいないとしても、自分の今の状況はかなり恵まれている、という自身に対する肯定的な感情が仏教の実践の出発点で、無我の教えも利他の教えも、それを前提として、その肯定的な感情を拡大するためのものなのです。

 もちろん、それに対して、私はまったく恵まれていない、悲惨な状況だ、どこが恵まれているんだ、と反論する方も少なくないでしょう。しかし、当然のことですが、仏教を信じたチベット人やかつての日本人が、今の私たちと比べて物質的に恵まれ、健康で病気がなく、快適な環境ですごしていたわけではありません。

 「100万円ないから、私は不幸だ」と考えている人がもし100万円手に入れることができたとしたら、しばらくは満足しているかもしれません。しかし、しばらくすると「1000万円ないから、私は不幸だ」と考えるようになります。1000万円が手に入れば、また同じで、しばらくすると「1億円ないから、私は不幸だ」ということになります。

 「隣の花は赤い」というのが、私たちの心ですが、その心でいる限り、どこまで行っても、赤いのはいつも隣の花です。

 健康な体をもっていても、破産した、リストラされた、離婚されて一人ぼっちになった、など様々な理由で、生きている意味がないと、死を選んでしまう人がいます。しかし、大金持ちで病気がちな人からすれば、その健康な体さえ手にはいるならば、1億円だしてもいい、と思うでしょう。

 毎日学校へ行くのが嫌で、学校のない世界に生まれることができたら、と願っている人もいるかもしれません。でも、世界には学校に行くことができず、学校に行くことができたら、と心の底から願っている人も少なくありません。以前、『世界がもし100人の村だったら』(マガジンハウス)という本が話題になったことがあります。人口比率を百人の村にたとえているのですが、「戦争に巻き込まれたことが一度もない」「飢えを一度も体験したことがない」というだけで、百人の村で少数派になってしまうのが、世界の現状です。

 自分が持っていないものに目を向けるのではなく、自分が持っているものの価値に気づくこと、これが仏教の出発点です。

 現在、世界で仏教に注目が集まっているのは、実際、社会で成功して物質的には何不自由ない生活を送っていて、しかし心は満たされず、仏教の教えは本当だと痛感する人が増えてきたためです。

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